nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

娘のおにぎり

4歳の娘のこと。
娘が、おにぎりを作ってくれるようになった。
ラップで包んだ一口おにぎりである。
なんかね、3年前は、食事の度に物凄く食べこぼしていたわけですよ。
コップの水でも味噌汁でもなんでもひっくり返して、辺り一面ぐっちゃぐちゃにしてたんですよ。
大人の介助無しでは食事も碌に出来ていなかったんですよ。
去年は、弟が産まれたことによる赤ちゃん返りで、朝から晩まで泣き喚いていたんですよ。

それが、
「お母さんは弟くんに食べさせるので大変だから、はいどーぞ!」
とか言って、夫と私におにぎりを作ってくれるのである。
更に、
「弟くんももっと食べたさそうだから、はいどーぞ!」
とか言って、息子にも作って食べさせてくれるのである。
そして、気がつけば娘が自分でコップを用意して冷蔵庫から牛乳を取り出して注いで飲んでいるのである。

もう、優しすぎて素敵すぎて泣ける。
大人にとっての三年間など、ぼーっとしてたら何の進歩も無く過ぎ去ってしまうのである。
それが、子供の持つこの成長のスピードは一体何なのだ。
やれ食べさせが大変だ、やれ夜泣きが大変だ、一体いつ楽になるんだと思い続けて、ふと気がつくと楽になっていて、やれやれと思っていたら、『あれ、そういえばあの赤ちゃんは一体どこに?』などと思うのである。
今日の可愛さが明日あるとは限らない。
代わりに新たな可愛さや喜びがやってくるのであるが、これもあっという間に消えていってしまうのだろうから、もう可能な限り全てを味わい尽くしていこうと思う次第である。

怒りと悲しみで眠れない

夫の趣味は料理である。
夕方、子供の相手のため料理の手を止めた私の代わりに、ポテトサラダを仕上げてくれた。
出来上がったポテトサラダは、マヨネーズとは違う臭みとしつこさがあった。
動揺を隠しつつ
「あれ、マヨネーズもう無かった?」
と聞くと、
「チーズ入れてみたんだ。美味しい?」
と聞かれた。

私は、食に関して極めて無頓着且つ保守的である。
「これはこういう味だろうな」と無意識に期待して食べたものが、全く違う味だった時。
平静を装って完食するが、内心物凄く動揺する。
夫は、味の冒険をしまくる。
市販のカレールーであっても何かしらのアレンジを加えねば気が済まず、ホールトマト缶を投入して殆どトマト味となったバーモントカレーを作ったりする。
それらは、確かに一般的には美味しいのであろう。
一手間加える事で新しい美味しさを見つけているのであろう。
食に精通し、仕事が忙しい中でも料理を進んでしてくれる、優しくて素敵な夫である。
こんな夫を悪く言うのは良く無い。
偏った考えを持つ私の方が悪い。

でも、私は味の冒険なんてしたくないんだよ!!
味のサプライズなんて要らないんだよ!
こちとら、お子ちゃま舌の貧乏舌なんだよ!
最低、サバ味噌煮缶と梅干しを、炊いた米に乗せて食べてれば満足なんだよ!
ポテサラはマヨネーズオンリー、バーモントカレーはただのバーモントカレーとして食べたいんだよ!
世間で稀に見る、サラダにレーズン&リンゴだの、そうめんだかヒヤムギだかにフルーツなんてのは舌への暴力なんだよ!

トマト味バーモントカレーの時点で、出来れば今後あまりアレンジをしないで欲しいな、とソフトに伝えたので、最近は派手なアレンジを控えてくれていたのであるが、何故か今回は、

・一週間分のまとめ買いした食材の中から
・子供のリクエストのポテサラを
・私の好物でもあり楽しみにしている中
・途中までは一生懸命作っていたのに
・ちょっと子供の相手をしている間に
・確かに仕上げをお願いしたのは私だけど
・最後の最後で
・自分の分だけではなく材料分全て
・まったく無断で
・チーズ味に塗り替えた
・いつもはポテサラ好きでモリモリ食べる子供たちが、キュウリ部分くらいしか食べない
・爆食王息子も殆ど食べない

という事をしてくれた。
「美味しいけど、やっぱりいつものマヨネーズ味が好きかな。
 アレンジするにしても、自分の分だけとか」
と返すと、
「やっぱりそうだよね、ごめんね!」
と言われた。
私もその場では納得してそれきりにしたのであるが、娘を寝かしている最中、娘から微かにチーズの臭気を感じ、思い出して「私のポテサラが!」とムカムカしてきてしまい、眠れず今に至る次第である。

いや、我ながらくだらない事でエネルギーを使っているものである。

しかし、これで食べ物に関する恨みの蓋が開いてしまった。
眠れない。

世の中には、外食をした際に、注文したものをなんでもシェアする人々がいる。
食習慣は人それぞれであるので、それが悪い事だとは言わない。
居酒屋で頼んだものや、中華料理店などでは取り分け合うのが普通でもある。
しかし、あくまでも私の感覚では、パスタ屋のパスタは、シェアする対象ではない。

大昔、独身の頃、ある友人とパスタ屋に行った際、
「私のこれ半分あげるー。あなたのそれも貰っていい?」
「え? あ、、あ、うぅん?」
と言う間に、あれよあれよと私の有頭エビのトマトクリームパスタと、彼女のバジルソースパスタが、スプーンとフォークを使用した美しいサーブにより鮮やかにくるくるとハーフ&ハーフにされてしまった事があった。
2尾あった有頭エビも1尾になってしまった。

私は、メニューを選ぶときは常に本気だ。
どれを一番食べたいか。
選んだもの以外に一切の興味は無い。
バジルソースパスタなど全く食べたくなかった。
私が食べるはずだった有頭エビ……。
卑しいと言われようとも、このときの悔しさは忘れられない。

夫のことは愛しているし、友人のことも尊敬しているが、それとこれとは別なのである。

しかしこうして書いてみるとやっぱりくだらない。
斯様なくだらない事で心乱されない人間になりたい。
おおらかな人でありたい。

そろそろやっと眠れそうである。

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追記

ブログ書いてたらお腹が空いたので、件のポテサラにツナマヨをプラスしてごはんに乗せて食べたら、ツナの力強い風味がチーズの臭みとしつこさを打ち消してお互いに引き立て合い、めっちゃ美味しかったことをお伝えすると共にここにお詫びいたします。

ごめんね夫。

直接怒ったりしなくて良かったです。

 

完璧な人間しか親になれないのか?

私は、「毒親に育てられました」という人のエッセイ漫画をたまに読む事がある(以下、毒親系漫画)。
かつて子供であった自分と重ねて、『うちはここまでじゃなくて良かった』と思いながら読んだり、現在親である自分と重ねて、『なるほど、こういう風にはならない様にしなくては』と自戒して読んだりする。
しかし、色々な作者の様々なエピソードの中には、『この程度のことで毒親と言われるのか! 避け切れる自信がない!』とショックを受けるものもある。

それぞれ具体的な書籍名は避けるが、例えば、子供が母親の為にサプライズでケーキを作ろうとしたがうまくいかず、モタモタしていたら、母親がキッチンに飛んできて、怒りながら完成させて「もうこんなことするな!」と言われた、というエピソードである。

はたまた、子供が皿洗い中の母親に「見て見て、ねぇ見て〜」と話しかけたら、

「今皿洗い中だろうが!」

と怒鳴られた、というエピソードである。

いやぁ〜〜……。
これらのエピソード、確かに子供にとってはとても悲しく理不尽な出来事であっただろうし、避けるべき言動ではあったとは思うのだが、乳幼児の親としては、母親の気持ちも分かりすぎてしまうのである。

例えば一つ目のエピソード。
子供の年齢が書かれていないが、一人では上手く料理のできない年齢の子供が、一人でモタモタとキッチンで粉や白い液体を使用している状況。
親にとってはちょっとした恐怖である。
自分なら、それを見た瞬間

・粉が散乱する地獄
・クリームでぐちゃぐちゃの台所
・数時間単位で占拠されるキッチン、からの〜、
 遅れる洗い物、からの〜、
 遅れるご飯の準備、からの〜、
 子供達の愚図り

が、次々と頭に浮かび、早くなんとかしなくては!という義務感に駆られそうである。
「あらあら、何作ってるのかしら、楽しみね、ウフフ〜」
などとはとても言えない予感がする。

そして二つ目のエピソード。
皿洗いをしている最中に「見て見て!」をやられる。
漫画には描かれていないが、子供はず〜〜〜〜〜〜っと「見て見て!」と言っているものである。
この漫画家さん、子持ちか否かは知らないが、是非、漫画を描いている最中に1分おきに「見て見て!」をやられてみて欲しいものである。
絶対、

「今漫画描いてんだろうが!」

と怒鳴りたくなるから。

とにかく、子供に一切毒親と思わせないよう、ギャルゲーのごとく全て正解の選択肢を選択していくことは難しい。
かつてはほとんどの人間が親となっていたのだろうが、全員が児童心理学を勉強していたとは思えない。
かといって子供が理不尽に悲しい思いをするのは良くないのは勿論である。
より多くの大人たちが子供に関わるようにする、ということが、解決の一つとなるのかもしれない。
しかしそれも、よくない大人と関わるリスクを高めることもあるし、助けにならないかもしれない。
結局、「親にされた嫌なことは子にやらない」「親にされた良いことは子にもする」を繰り返していくしかないのであろう。

 

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

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春休みをぶっとばせ!

春休みである。
夫は連日終電、毎週末休日出勤である。
朝から晩までワンオペ育児である。
なんとか子供達に健全な楽しみをと思い、土埃舞う公園や、小学生で混雑する児童館へと毎日毎日連れて行っていたが、流石に疲れて、今日はずっとテレビに相手をさせて過ごしてしまっている。
こんな時、健全な楽しみと同世代との関わりを毎日提供してくれる保育園はいいなと思う。
煽り抜きで羨ましくなる。
勿論、どちらの道も利点と欠点があり、自分たちの価値観で総合的に判断した結果であるので後悔はないのだが、子供を外で放牧出来た昭和はいいよな、などと思ってしまう。
まあ今日などは、お庭で遊んできていいよと言っても、娘は「え〜、寒いからいやだ」などと言うのであるが。

最近やっと、娘と息子が親の介入を必要とせず二人で遊ぶ、ということをし始めた。
これはとても良い。
まだ、姉弟二人だけで一緒に遊ぶのは突発的且つ短時間であるが、二人で楽しそうにきゃーきゃー言いながら遊んでいるのを見ると心底ほっとする。
外出しなくてもいつでも関わり遊びが出来て、同じ家の中にいれば多少目を離しても大丈夫であるからだ。
息子が生まれてから娘が入園するまでの半年間は娘の壮絶な赤ちゃん返りで私はノイローゼ寸前となり、天真爛漫であった娘は陰気な性格になってしまい、このまま戻らなかったらどうしようかと思い悩んだ。
しかし今、娘はいつのまにか元の天真爛漫な性格に戻り、弟をとても可愛がってくれるようになった。
年齢及び経済的な制限さえなければ、もう一人くらい産んでもいいかな、などとも思うが、もう一度あの赤ちゃん返りの時期を乗り越える自信はないのである。

 

 

どこまで我慢強いんだよ日本女性!

大人が全員外で働いていたら毎食外食でいいんだよ!といっている私であるが、家事を否定しているわけではない。
自分自身、綺麗に整った部屋に暮らしたいし、インスタント食品よりは、手作りの食事が美味しいと言う気持ちも否定し難い。
私が否定したいのは、家事育児介護のタスク量を変えないまま、そこに昭和のサラリーマンと同等の出力を必要とする仕事までも追加して、人員を増やさずなんとかしようという考え方である。
タスクの洗い出しをせず、人月計算をせず、勢いだけでなんとかしようとしてもそのプロジェクトは炎上する。
それは、仕事が増えても人は増やさない、精神論や根性論での解決を提示する、ブラック企業のやり方そのものだ。
その思惑に気付いてか気付かずか、「自分が休んだら迷惑が掛かる」などと考えてギリギリまで頑張ってしまう、過労シ寸前の社員そのものだ。

今は子供を持つことに対する社会的圧力は弱く、子供を持つ事は趣味と同等に扱われているので、そんな状況になる覚悟がなくては子供を持てないのであれば、持たなくても良いと思う人が多くいるのも不思議では無い。
余談であるが、子持ちが(趣味で子供をもうけた癖に)税金を多くあてがわれているという指摘は誤りである。
税金をあてがわれているのは子供の親ではない。
一人の国民である子供自身である。
指摘しているであろう人も、税金をもとに教育や医療を受けたはずである。
もちろん当人が子供であった当時は児童手当などは無かったであろうが、世代間の不公平は言っても仕方ないことである。
それを言うなら、今の子供ほど将来経済的に割りを食う世代はないし、無茶な戦争に出兵させられた世代ほど不運であった世代もない。

閑話休題

以前新聞で、離婚した夫婦の子供の、親権に関する記事を読んだ。
日本も共同親権にすべき、という論旨である。
そこに描かれた夫婦は、共働きで子供を育てていたが、家事育児の分担で揉めて離婚し、妻が親権を得たが、夫も親権を持ちたい、ということであった。
子供を育てるということは大変なことで、一人では到底無理であるために現代日本では一般的に夫婦で育てるという形が採られている。
時代や地域やコミュニティーが変わると、女性側の親族が育てる妻問婚のような形態が採られることもあるようだ。
家事育児も良う分担できんと親権だけ分担したがるとかどないやねん、というツッコミはさておき。
よりよい生活や、社会との繋がりを求めて折角夫婦で頑張っていたのに、結果として一馬力で全タスクをやらねばならなくなるのは悲しい。
手段と目的が入れ替わっているように思う。
この手の離婚を、『家事分担決裂離婚』とでも呼んではどうかと思う。
名前が付けば警戒することも出来よう。
夫婦間で家事育児介護がうまく分担できなければ離婚に繋がる時代なのだという、誰かの夫や父親にも長時間労働をさせず早く家に帰してやれという、世の中へ対する警鐘にもなろう。

なによりも、この国が女性の就労率を上げようとするならば、『綺麗な部屋や整った生活を道徳的に良しとする価値観』を、放棄しなくてはならないのだと思う。
家事を外注するという方法も勿論あるが、それは、外注する人と外注される人に大きな賃金格差があって初めて成り立つことであるから、全ての世帯が利用出来るわけではないし、そういう大きな賃金格差があること自体どうよ、と思ってしまうので、抵抗を感じる。

そして、昭和の母親像を放棄するという大人の決定に、子供がどう思うか?
生活に関する近代の道徳的価値観を切り捨てて、大丈夫なのか?(たぶん大丈夫なんだろうと思うが)
一体どうすべきなのか?
その答えを求めて、色々な本を読んでいるが、よくわからずにいる。

 

 

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「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす (光文社新書)

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習い事を決めた

春から娘に習い事をさせようと思っている。
元々、やれピアノが習いたい、バレエが習いたいと言っていたのを、まだ難しいだろうと思いのらりくらり躱していたのであるが、年中ともなればそうも言っていられまい。
娘の希望から、絵画教室、バレエ教室、スケート教室の体験に行かせたところ、一番楽しかったと言う絵画教室に決めることにした。
私としては、踊り好きの娘に向き、且つ将来一番役に立つバレエ教室に行って欲しいと思っていたのであるが、ここで私の希望を通してしまっては、ピアノ好きの趣味を子に託した母と同じ過ちを繰り返してしまう事になるので、本人の意志を尊重した。
正直、絵画教室の講師陣の出身大学は私と同じであり、それどころか同窓生だったりもするので、なぜ自分でも教えられそうなことをお金を払って教わりに行かせねばならんねんという思いはあるのであるが、それを言っては、お勉強の出来る親の子は塾に行かないのか、などという話になってしまうので、割り切ることにした。
何より、他の子と一緒に並んで制作をすることは大きな刺激になることだし、そういえば自分が子供の頃一番行きたかったのは絵画教室であったなあ、と思い直した。
私は子供の頃、習い事というのは自分が興味のあることや好きなことを追求してよいものだとは認識していなかったのだ。
必要性はわからないけれども嫌なことを頑張る、修行のような物だと思っていた。
そして、絵画教室という夢のような場所がどこか遠くにあることを知ったのは高学年の時であったのだ。


なお、バレエが将来役に立つというのは、別にプロを目指させる為では無い。
バレエ習うと背筋が伸びて姿勢が良くなる。
指先のポジションや手の動かし方も習うので、動作が優雅になる。
姿勢が良い、動作が優雅というだけで、美人でなくとも少し美人風に見える。
美人風に見えるだけで色々得をするものである。
容姿の全く関係ない仕事であっても、「まず相手に自分の話を聞いて貰えるか否か」という部分が成果に与える影響は大きい。
何より、姿勢や振る舞いを人に褒められると自信がつく。
私はもうアラフォーではあるが、独身時代の貯金を使って、いつの日かもう一度、数十年ぶりにバレエ教室に通おうかなどと思い、育児で下を向きっぱなしの為に大分丸まってしまった背筋を反らし、毎夜柔軟を行ない、背中を痛めている。
子供は親と違う人間である。
親が興味のあることは、親自身がやれば良いのだ。

 

 

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断捨離やめました

私は元来、スッキリと片付いたオッサレ〜な部屋が好きである。
ダークブラウンの木材でまとめて、照明も凝って、生活感などゼロ、というような。
従って、それを妨げることの無いよう、可能な限りモノは少なくしたいと思っている。
否、思っていた。

しかし今更であるが、子供が幼いうちはやっぱりやめておこうと思う。
子育て系の情報は世に多くあり、その中でも、『子供が居る中でどうやってスッキリ暮らすか』というテーマは人気の高いものである。
ライフデザイナーだか、片付けコンサルタントだか、そういうようなプロの方達の記事も多い。
だが、そういう類の情報を読むと、
「他所の子供ってそんなに聞き分け良いのかぁ〜〜??」
と疑問が湧き、少なくともうちの娘の性格ではムリだわ、となるのである。
娘には、2歳頃から少しずつ自分で片付けるように言っており、今思えばちょっとしつこく言い過ぎたかなと思うくらいであるのだが、現在は、まあまあ片付けられるようになっている。
というか、片付けないと1歳の息子がすぐさま荒らすので、大事な物を守る為には自分で片付けざるを得ないのだ。
それでも、リビングは子供めいたデザインのおもちゃでいっぱいで、スッキリオサレ空間とは程遠い。
片付け関連の記事では大抵、

・とにかく物の絶対数を減らす
・増やさない
・物をしまう場所を決める
・一定期間触らなかったものは捨てる
・「使う『かも知れない』モノ」は捨てる

などと、まあ当たり前だよね、わかってますよ、な事が書いてある。
だが、おもちゃを捨てるには持ち主である娘の許可が必要であるし、『大人から見たらくだらないモノ』を普段一切買わないようなストイックな子育てを子供たちに強要したくはないし、物をしまう場所は娘自身が強固な意志をもって決めており、私が何と言おうと、相当な痛い目(大箱にまとめて入れたネックレスが全部絡まるなど)を見ないと私の助言など聞かないし、牛乳の空きパックやラップの芯や段ボール箱は、今すぐ使わなくても娘が工作で必要とする可能性があるため多少はストックしておかないといけないしで、一つも守れる気がしないのだ。

子育てが終わった頃の、20年後の未来を想像してみる。
この、目がチカチカするようなおもちゃの山は、もうどこにも無い。
汚れても良いダサい部屋着ヘビロテ生活とはサヨナラして、素敵なワンピースを着る。
憧れのスッキリオサレ部屋で老年に差し掛かりつつある夫と、静かにジャズを聴きながらチーズを肴にちょっと良いワインでも………。

って、いやいや、今となってはそんなの全然楽しそうじゃない!
いかに盛大に散らかっていようとも、四六時中うるさく話しかけられようとも、もちもちほっぺと、ちっちゃあんよを好きなだけムニムニと出来る今の方が、自分にとっては最高にイケてるし、幸せなのである。