nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

シングルペアレントと自立

私は、『シングルペアレントになったけれども自立の為に実家には頼らない』という話を聞くたび、疑問を感じている。

自立とは、『自分で自分の生活を支える』という事であろう。
この場合、支えられるべきは言うまでもなく『自分の生活』である。
支えられるべき生活の重さを、一人当たり1単位であると仮定する。
この重さには、経済的負担のみならず、家事等、身の回りの世話が含まれる。
一人がそれら1単位を支えている状態が、『自立している』状態である。
すると、シングルペアレントの場合、子供を含めて2〜4単位程度の重さを一人で支えていることになるわけである。

え?
それで頼れるところを頼って、一体何を恥じる事があるの?
世の単身者が1単位の重さを支えて『自立』とされているところを、自分以外の分の重さまでたった一人で支えないと『自立』と見なされないって、おかしくない?
と思うわけである。

勿論、子供に対して責任を持つべきは親であるから、第三者が嫌々手を差し伸べる義務はない。
しかしその場合は「自分は面倒だから助けたくない」と言うべきであり、「自立しなよ」と言うのは余計なお世話であり、お為ごかしである。
更にそれは、『周囲の支援を得るのは恥である』という、『歯を食いしばってでも親達のみの力で子供を育てるのが美徳である』という、いらん概念を当人達及び世の中に与え、多くの子供達が救われることを阻害するであろう。

子供を育てるという事は、凄まじく大変である。
精神論では乗り越えられないほど、物理的に人手が足りないと感じる事が多い。
スレッド数に対してCPU数(或いはコア数、或いはマシン数)が圧倒的に足りないと言えば良いだろうか。
であるから、人類はペアを作り、更にコミュニティを作り、CPU数を増やして繁殖に対応してきたのではないか。
豊かになり、生存が容易になり、労力を貨幣という形で保存/交換できるようになった今、ペアレント若しくはペアレンツのみでの繁殖が不可能ではなくなった。
そして、不可能ではなくなったからこそ『ペアレント若しくはペアレンツのみで育てるのが【自立】であり、良い事である』という新しい価値観が生まれたのではないか。
育児においてのゴールは子供が健やかに大人になることであって、それをより少ない工数で達成したから偉い、という類の話ではないように思う。
人月計算を大きく誤ったプロジェクトは炎上する。
そしてメンバーの能力は一律ではない。

私は、子供を産み育てるというのは、お金と時間という誰から見ても分かる客観的な価値を、子供との時間やその成長という、当人達にしか分からない主観的な価値に変換していく作業だと思っている。
それくらい、お金と時間がゴリゴリと削られていく。
純粋にペアレント若しくはペアレンツのみで繁殖を完了出来るペアは、人類のうちどれくらいの割合存在するだろうか?
おそらく多くの人が『自立』を語る時、自らの労力を貨幣に一度変換したのち、その貨幣をもって第三者の労力を購入する事は何故か『自力』に含めていると思われるので、家事育児を外注することはセーフであるとする。
しかし、双方の実家や関係者に全く頼らず、例えインフルエンザで一家全滅しても資力でなんとか乗り越える事のできるスーパーパワーカップルが、果たしてどれだけ居るというのか。
そしてそれは他の方式より優れているのか。
元々人類はそれほどスーパーではないのに、そんなスーパーなカップルしか子供を産み育てる資格が無いということになれば、そりゃあ、子供を産めるのは蛮勇を持つ人と、ごくわずかなスーパーパワーカップルのみだね、という結論にもなろう。
まあ私は、増加し続けるヒトの中にあって、先進各国というある群の個体数が減少するのは特に問題ないと思っているのであるが。

私は、虐待、特にネグレクトに関する本をよく読む。
我が子に対して何故そんなことをするのか全く理解出来ないからだ。
何冊も読むうちに、少しだけ分かるようになったことがある。
ネグレクトをする多くの親は、子供の事が、憎くて、嫌いで、そうしたわけではないという事だ。
箇条書きすると、ネグレクトには以下のような背景があるようだ。

・若過ぎることや、単に知能的な問題に起因すると思われる、親としての実務的な能力不足
・上記に関連して、自らの行動の結果を予想できないこと、及び、思考を敢えて停止しがちであること
・子供を他者でなく自分の一部であるように認識していること
・自己評価が低く、自罰的な側面を持つこと

子供とのラブラブなプリクラ写真や、虐待親のSNSの記述に見られるような『王子/姫』的な猫可愛がりと、虐待とが並行進行するのは、子供を一人の他者ではなく自らの一部と見なしており、自らへ向くべき自己愛と自罰が、同時に子供へ向いているからではないか。
そしてここが一番重要なことであるのだが、ネグレクトする親の多くが、なんらかの理由で無理な『自立』を強いられている。
元々、上記のような背景及び特性を持つ親が、2〜4単位の負荷を一人で支えられるわけがないのだ。
人類の多くは完璧ではない。

虐待等のニュースを耳にした時、私には以下のようなイメージが見えるようになった。
海上に一畳ほどの面積を持つ小さい島があり、そこに親子が立っている。
島はソフト的/ハード的な生活の基盤を表す。
島はだんだんと侵食され、面積が狭まっていく。
どんどん狭くなっていく島の上では、親は自分の命さえも危うく、子供を守るどころではない。
そして、侵食を受けて一番最初に海中に落ちるのは子供なのだ。
故に、虐待が起こらないようにするためには、まず島の面積を増やし、親を支えなくてはならないのだ。

ある新聞記事で、虐待を起こすのは、誰にも頼るまいとする真面目な親だ、という言葉を読んだ。
『親だけで育児なんて無理ゲー』だと気づき、ヘルプサインを出せる親は虐待せずにすむのだと。
その通りだと思う。

私は、自立とは、字面とは裏腹に、『より多くの【頼り頼られる先】を作ること』ではないかと思うようになっている。
子供にはこう言っている。
困った時に相談できる先をたくさん持っておきなさい、と。
私に相談出来なくてもいい、父親でも、友達でも、学校の先生でも、児童館の先生でも、祖父母でも、叔父叔母でも、友達のお母さんでも、行政でもいい。
出来るだけたくさん社会と繋がりをもち、居場所をたくさん作っておいて欲しい。
そして、ヘルプを上げることを恥と思わないで欲しい。
問題が発生しているのにギリギリまでヘルプを上げないのは、プロジェクトが炎上するとても大きな要因であるから。

その点、世の多くの社長という人々は素晴らしい。
彼ら、彼女らこそ人を頼る天才だ。
自分では何の技術も持たなくても(というのは語弊があるだろうが)、『この人のやりたい事を助けてあげたい』という人が周りに集まっているのだから。

社長でなくてもよい。
身の回りの『ちょっと成功してるな』と思う人を思い浮かべてみて欲しい。
要所要所で、実に上手く人に頼っていないだろうか。
逆に、『あの人、生きづらそうだな』と思う人ほど、誰にも頼るまいとしゃかりきになって、差し伸べられる周囲の手を自ら振りほどいていないだろうか。

頼り頼られることの基本は、コミュニケーションであり、ソーシャルスキルである。
ソーシャルスキルの礎は、自己肯定感であると私は思う。
自己肯定感はどうしたら育まれるのだろうか。
『自分は存在して良い、幸せになっても良い』という意識は、どうしたら生まれるのだろうか。
それは、子供時代に根拠なく無条件に微笑みかけられ世話されるという原体験であると考えるのは、飛躍しすぎだろうか。

 

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

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