nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

幼稚園の先生の『ら抜き言葉』に思う

娘の通う幼稚園の、担任の先生からお手紙を頂いた。
なんということはない連絡なのであるが、文章中に『ら抜き言葉』が多用されていた。
ソースを失ってしまったが、現在では過半数の人が『ら抜き言葉』を使用しているという。
実は夫も『ら抜き言葉』(「食べれる」)を多用している。
娘もである。
娘が「たべれる」「たべれる」とあまりに言うもので、

「ほんとうは『たべられる』って言うってこと、知っている?」

と聞いたところ、知らないとの事であった。

私は使用しない。
ら抜き言葉』の正当性には諸説あり、更に、言葉は時とともに変遷していくものであるから、一概に『ら抜き言葉絶対殲滅! Search and destroy! キーッ!』と言うつもりは無いし、自分を正当化し他人を啓蒙できる程の歴史的裏付けの知識が自分にはない。
しかし、『ら抜き言葉=悪』という風潮の中で思春期を過ごしてきたこともあり、自分が使用したり耳にしたりすることには抵抗がある。
中学時代に書かされた小論文のテーマでも『ら抜き言葉に対するあなたの考え』というものがあり、その時、自分はやはり「言葉は変化するので人が使用するのは仕方ないが自分では使用しない」というような事を書いた気がする。
技術に関してはアーリーアダプターでありたいが、言葉に関してはラガードでありたいのである。

しかし私とて、『い抜き言葉』は使用する。
『知っている』『来ている』というべきところを、『知ってる』『来てる』と言うことはとても多い。
薄々これは『い抜き言葉』だな、と感じていても、文章や言葉に柔らかさやフランクさを出すために、敢えて使用することも多い。
『〜である』と書くべきところを『〜だ』と書く事も多い。
そうか、先生にとっては最早『ら抜き言葉』は、『い抜き言葉』や『〜だ』と同等のメジャー感なのかも知れない。

個人的にもう一つ気になる言葉の変遷は、『たり』の重複の省略である。
小学一年生か二年生の時の国語の教科書に、このような問題が載っていた。

以下の文中の誤りを指摘せよ
「きょう、そうじのじかんにきょうしつをはいたりふいた」

答えは、「ふいた」の部分で、「はいたり」に対応して「ふいたりした」としなくてはならなかったのである。
私は、この問題がなかなか解けなかった。
何度読み直しても、文章に対して違和感を感じなかったのだ。
結局私は最後まで正解することが出来ず、更に帰宅後、4歳上の姉に

「なんでそんなことも分からないの?
 そんなの私すぐ分かるよ」

などと侮辱されたのだった。

ところがどうだ!
現在、電車に乗れば座席テーブルの注意書きに『テーブルに立ったり重い物を載せないで下さい』と書かれたシールが貼られ、民営放送はもとよりNHKのニュースですら、『たり』重複省略を平気で多用、多用、アンド多用している。
『たり』の重複省略に対するNHKの見解(言い訳)は以下の通りである。

NHK放送文化研究所
「~たり~たり」
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/154.html

要約すると、「そんなの分かってるけど短く伝えるのも大事なんだよね」との事である。

このやろう!
みんな、7歳だった私に謝れ!!
などと訳のわからない八つ当たりをしたくなる。

今、私は『たり』の重複省略をしないように心がけているが、つい使用してしまうこともある。
実は、過去のブログの記事にも使用している箇所が少なくとも一箇所ある。
訂正しないまま放置している状態だ。

結局、『ら抜き言葉』にしろ『たり』の重複省略にしろ、私が違和感を覚える新語はどちらも、私自身が社会に『使うな』と圧力を掛けられていた言葉に過ぎないのだ。
私は、自分のされた事を他者にするだけのクソ野郎なのか。
どんな新語も柔軟に受け入れる懐の深さが必要なのか。

昔、飲みの席で上司が、

「最近の若い者は言葉を省略してダメだ」

と言ったことがあった。
私はそれを聞いて、

「どこまで歴史を遡るかが問題ですよね」

と答えた。
何だか、

「そうですよね!
 『〜します』なんて省略語、絶対ダメですよね!
 『〜致し申候(いたしもうしそうろう)』ってちゃんと書かないと絶対絶対ダメですよね!
 私も常々そう思っていたんですよ!!!」

と熱く同意したような気もするが流石に記憶違いだと思う。

言葉が絶えず変遷を続ける中で、自らの使用する言葉の正当性をどこに頼るか。
それをどこまで他の利害関係者に求めて良いか。
文化庁の見解や、国語審議会答申は、一つの答えであると思う。
自分の場合は、仕様書等のビジネス文書を書くときや、人の書いた仕様書等を添削する際は、それらを拠り所としていた(こんな習慣、無くなった方が日本の生産性は上がると思うのだが)。
だって、そういう拠り所がないと「小娘が俺様のミスを指摘するんじゃねー!」などとキレてくる人たちもいるのだもの。

話を戻そう。

箸の持ち方と同様、『ら抜き言葉』を使う事で「まぁ、お育ちが悪いのね」とか「まぁ、アホでいらっしゃるのね」と思う人が一定数いることは確かであると推測されるので、それを分かった上で「失せろ老害! ぁたしゎ鳥だ!」とロックンロールな心意気で拒絶するならまだしも、そうと分からないままで低評価をされてしまうのはとても損なことである。

昔、何かのデザインの教授が言っていた。
ポストカードをデザインするときに、裏面に『POST CARD』と書くのであれば、本来は『POSTCARD』と書くべきであると分かった上でやれ、と。
横紙破りは基本が出来た上で、それでも横紙破りをするのだという強い意志を持ってやれ、と。
でなきゃただのアホだ、と。

娘には、「考え方は人それぞれだから、他の人が『ら抜き言葉』を使っているのは自由だけど、プリンセスを目指す人はあまり使わない」と説明した。
『プリンセス』!
なんて便利な言葉!

個人的には、幼稚園の指導の時間や、保護者とやりとりする文書の中では、コンサバティブな言葉を用いて欲しいと思ってしまう。
子供への読み書きの指導もカリキュラムに含まれるのだから。
勿論プライベートではどうぞご自由に。
先生は、どのようなスタンスで『ら抜き言葉』を使用されているのだろうか。
「言葉は変遷するものだから、今のうちに新しい言葉に慣れておくべき」という信念をお持ちなのであれば、私からは何も言うことはない。
先生には先生のお考えがあり、私は先生にお任せしている立場であるから、余程の事(体格や月齢に合わない量の給食完食の強要、冬場の薄着の強要等)がない限り、何も言わないつもりだ。
しかし、先生が特に何の確信も無く『ら抜き言葉』を使用されており、同時に、教育の場ではコンサバティブな言葉を使用すべきであると思っておられるとする。
この状態は、先生にとっても園児にとっても保護者にとってもマイナスである。
どちらなのか知りたい。
しかし、「先生はどのようなスタンスで『ら抜き言葉』を使っておられるのですか」などと質問すれば、嫌味かクレームであると思われるだろう。
何とか、よりソフトな表現で、『ら』を意識していただくことは出来ないか……。
しかも、元々の手紙の内容が先生からの謝罪(「娘を強く叱り過ぎて泣かせてしました」云々)であるため、なるべく先生を恐縮させる事なく、和やかな表現をとりたい。
そしていつも可愛らしいキャラクターものの便箋をチョイスしてくれる、感性の若いフランクな先生なので、そういう面も合わせていきたい。

散々悩んだ結果、返信のお手紙には、自分の文章中の『ら』の部分に色鉛筆で可愛らしいお花模様を描き、文字の周囲にキラキラしたシールを貼り装飾したものを書いた。


いちいちこういうことばかり気にしているから、私は生き難いのかもしれない。

 

 

ラ・ラ・ランド(字幕版)

ラ・ラ・ランド(字幕版)

  • 発売日: 2017/08/02
  • メディア: Prime Video