nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

凝った料理を作ると親子関係が悪化する件

ミニトマトが大量に手に入った。
そして、ミートソースパスタを食べたいが缶詰が手元に無いので、ミートソースを手作りすることにした。
結果として美味しくできたわけであるが、娘はあまり食べなかった。
産まれた頃からとにかく少食な娘であるが、幼稚園が休園になってから、ますますその傾向に拍車が掛かっている。
当然だ。
運動量が減っているからだ。

娘の少食については、私は既に諦めている。
食べない子に対するあらゆる対策をやりつくした。

食事中はテレビを消す。
一緒に料理する。
一緒に食べる。
盛り付けを工夫する。
少しだけ盛る。
運動させる。
etc..

検診では毎回体重の増えを指摘された。
「白飯は何グラム食べていますか?」
などと聞かれ、内心で
「毎回違うわ!
 お前は今日白飯何グラム食べたか言えるんか!
 計っとるんか!」
と毒づいた(実際は、『みんなそんなに毎食一定量を食べるのか! 計っているのか!』と驚き面食らって何も言えなかったというのが正しい)。

そして最終的に、気にしないことにした。
かくいう私も食べない子供だったからだ。
思うに、子供の頃極端に食べない人間というのは、種類として存在する。
私や、姉や、母や、夫である。

ホモ・コドモノコロタベナイデス(Homo kodomonokoro tabenaides、「子供の頃食べない人間」の意味)。
ホモ・サピエンスと多くの共通点を持つが、子供の頃の食事量が著しく少ないという特徴を持つ。

我々はこれだ。
そう思うことにした。

そう割り切ったつもりであったが、今日の娘の食べないっぷりには怒ってしまった。
娘は、散々粉チーズを掛けて、数口食べただけで残そうとした。
自分好みに調味料を掛けて、殆ど残すという行為が受け入れ難かった。
しかし、よく考えてみれば、今日は一日中家に居てお腹が空いている筈もないし、それを考慮してもっと少なく盛るべきだったのだろうし、娘の行為は確かに注意されるべきであるが何も怒るほどの事でもなかった。
どう考えても、私の行動の背後には、『せっかく頑張って作ったのに』という思いが存在するのだと認めざるを得ない。

『せっかく頑張って作ったのに』。

他者にとって、これほど迷惑な感情は無い。
娘は別に、ミートソースを手作りしてくれなどとは言っていない。
私は手作りのミートソースを美味しいと思うが、娘はそうだとは限らない。
缶詰を利用した方が早く作れる分、余った時間で子供達と遊んであげられる(そして手作りするより遥かに安い)。
現在の子供達にとっての一番のバリューは、イライラしていない状態の、笑顔の私とのんびり遊ぶことのようである。
部屋がホテルのように綺麗であることも、凝った手作りの食事も、特に子供は望んでいない。
私はよく、娘にプリキュアの衣装を手作りし、それを娘は喜ぶけれども、それは私の、既製品の衣装のクオリティーに満足しない、キャラクターの服に妥協をしたくないという完全なる趣味の為であり、娘が誕生日やクリスマスに既製品(プリチューム)を欲しがれば与えるであろう。

私の料理は概ね手抜きである。
餃子はチルドであるし、ミートソースは缶詰だ。
カレーはルーを使い、隠し味などのアレンジはしない。
長子である娘の離乳食は頑張って作っていたが、次子である息子には離乳食は改めて作らなかった。
なのに娘が少食で、息子が食欲旺盛であるのはなんでなんだぜ。
夫は料理を趣味とするため色々とスゴイ(アホみたいな表現だが他になんと言って良いか分からないのだ)が、基本的に自分の食べたいものを作っているので、子供がそれを食べなくても気にならないようだ。
もしも私が家族の為に凝った料理を作る人間だったとする。
私は、苦労の報われなさに怒り狂い、子供は母親の手作りの料理を喜ぶべきという思い込みを押しつけ、今の10倍子供に当たり散らしていただろう。

ホモ・コドモノコロタベナイデスの大人として思う。
料理が適当で、良かったと。

 

 

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