nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

マシュマロ・テストに思う

マシュマロ・テストというものがある。
就学前の子供にマシュマロを一つちらつかせ、一定時間我慢できたらもう一つ食べて良いという条件を提示し、我慢して二つ目をゲットできるか、我慢できずに一つのみ食べてしまうかをテストするというものである。
曰く、我慢して二つ目をゲットした子供は、自制心(喜びを遅らせる能力)が強く、将来成功する割合が高いとかなんとか。

先日たまたま、年長児の娘に対してこのような状況が発生したことがあった。
私のタスクの流れと一日のタイムスケジュールの都合から、

・先に入浴するならその後ポケモンのアニメを2話連続で観られる。
・入浴を後回しにして今すぐアニメを観るなら、今日は1話のみ。

という条件を提示することになったのである。
娘は後者を選んだ。
直近の欲を我慢できなかったのである。
そして全てが終わったあと、自分の選択を後悔し、娘は荒れた。
内心、やっぱりね、と思いながらも、私の心にはこのテストに対するもやもやとした疑問が渦巻くのであった。
まず、被験者の偏りについては、散々突っ込まれているであろうから私からは今更言うことは何も無い。
その他、思うことを以下に述べる。


1. 子供一人一人のマシュマロに対する執着のレベルが結果に影響を与えるのではないか

未就学児すべてが、一定の強度でもってマシュマロが好きなのだろうか。
娘はチョコレートが嫌いである。
甘いものにあまり執着がない。
カニ味噌が大好物である。
息子はチョコレートが好きだが、イクラや肉の方が好きである。
そして二人ともマシュマロは嫌いで見向きもしない。
私がアル中でないのは、必死に我慢をしているからでなく、アルコールがそれほど美味しいと思わないからである。
私がギャンブルに近づかないのは、伝え聞くリターンの悪さ故のみならず、付随するタバコの煙や音の刺激が嫌いだからという理由もある。

 

2. 時間の経過とともにマシュマロの取得数が増えるという点に、子供が納得できるだけの必然性が存在しない

「なんで一定時間経つともう一つ貰えるの?
 マシュマロって自然に増えるわけじゃないでしょ?
 明らかにさっきの人の恣意的なアレじゃない?
 突然そんなルール提示してきて、隠し持ってるマシュマロくれないとか。
 それって意地悪すぎない?
 もしかして私の行動を勝手にテストする気?
 お前を蝋人形にしてやろうか!」
私が未就学女児ならそう思う。
先に述べた、私から娘への条件提示も、突然且つ娘からは何の必然性もない条件であったため、おそらくただの意地悪だと思われただろう。
この一件で娘の私への信頼は多少なりとも崩れただろうし、大きくなってから
「お母さんは突然意味不明なルールを押し付けてくる」
と言われてもぐうの音も出ない。
実際娘は、『ゲームをやるのはスマイルゼミが終わってから』という、予め習慣化されたルールは守ることができる。
『突然』『謎のルールが』提示された場合に、反発を覚えるタイプの子供もいるのではないか。


3.  体調と機嫌、精神状態に大いに左右される

子供はその時の状態により、我慢が出来る場合も出来ない場合もある。
眠い時、あるいは体調の悪い時、子供に自制心を求めるのは難しい。


4. 別にピューリタンになりたいわけではない

私の勝手な憶測であるが、このマシュマロ・テストからは大いにピューリタン的な色彩を感じる。
質素だとか蓄財だとかを是とする価値観の中では、確かに良いテストなのだろう。
その価値観を否定はしないし大変大事で立派なことだと思う。

しかし私は特にピューリタニズム的生活に志向性を持っていない。
欲は悪いものではない。
欲は向上心を生み、熱中し、パッションを生み、それはイノベーションに繋がる。
熱中は脳にとっての甘くて美味しい最高のご馳走だが、後回しにしていては冷めてしまう。
アイディアも霧散してしまう。
時間をおいているうちに、「こんなことしたら笑われるだろうか」「そんなにいいアイディアじゃなかったかも」などと思い出し、最悪の場合、頭の中だけで完成させて満足してしまう。
バカバカしいことでも困難なことでも、実際にやれば素晴らしい結果を生むかもしれないのに、である。

未来の為により多くの種を取っておくことも大事だけれども、少ない種から多くの実りを得る技術を開発する方が割が良いし、その開発に必要なのは「怠けたい、楽したいという欲」「思いついたことをすぐ試したいという情熱」ではないのかなぁ、と思う。
少なくとも私の知る限り、システム屋として優秀なのは、虚しい作業はしたくない、楽したい、得意な事ややりたい事だけしたい、ルール自体に疑問を持つ、思いついたらすぐ試したい、という種類の人達である。

何より、努力や我慢の量で報われたらそれは平等で素晴らしいのだろうけれども、実際はそれよりも、生まれ年(例えば就職時の景気)や人との出会い、運、生まれ持った能力のほうがよほど成功の度合いに寄与しているような気がする。

 

5. 自制心は人を幸せにするか

なるほど、電車内で怒りに我を忘れ他人を殴らないだけの自制心は必要だろう。
ギャンブルや過度のアルコール摂取などといった愚かな行為に手を出さない懸命さも絶対に必要だ。

しかし。
私は時に、自分の自制心を邪魔だと思う時がある。
私はリスクをとることが苦手だ。
一か八かの賭け、実際はそんなリスキーなことではないのに、現行の安定を一瞬でも手放すと言うことが、出来ない。
いつも親の『失敗するなよ』の声が頭の中で響き、足がすくみとどまってしまう。
例え失敗に終わったとしても、取り分が減ったとしても、もっとパッションの赴くままに行動すれば良かったと、死の床で後悔するであろう局面も多い。

私の知る限り、自分に向かない嫌なことを我慢してやってもそれほど幸せにもリッチにもならない。
リッチになるのは、たまたま自分の向いていることがお金を稼げることだった人、それを見つけることができた人だ。
そして幸せなのは、リッチな人ではなく、『身の回りの人との関係構築が上手い人』であり、『足るを知る人』であり、『自己肯定感の高い人』だ。
富裕な親たちが、モノ消費よりもコト消費でもって子供にお金を注ぐのは、『たまたま自分にマッチしている、お金の稼げる何か』の芽を、総当たり方式で発見させるためではないのか。

そしてどう考えても、受験結果は勉強時間に比例しない(高校受験以降を想定)。
良い結果を出すのは、生来頭が試験方式にマッチしている人だ。
勉強時間はその後の人生の糧になるから良いのだ、と言えるのかもしれないが、それを言ったら目的と手段の関係性がちぐはくになってしまうし、勉強時間がその後の人生にどういう影響をもたらすのかは、分からないので不毛な議論だ。

さきほど、娘には『ゲームをやるのはスマイルゼミをやってから』というルールを守らせていると言ったが、これはひとえに、休園期間中にあまりに娘が無為に時間を浪費しすぎるのを心配して半年分契約したものを、途中で無駄にしたくないという私の愚かな吝嗇心ゆえである。
本当は、無為上等、ゲームは飽きるまでやればいいと思っている。

中学の頃のクラスの面々を思い出してみる。
私が通っていたのは田舎の公立中学校であり、様々なレベルの子供たちがいた。
その中で、ゲームは一日一時間などと、制限を掛けられている生徒ほど、成績がパッとしなかったような思い出がある。
成績が良いからゲームの制限をされないのか、ゲームの制限が無いから成績が良いのかは不明である。
個人的な主観であるし、サンプル数も不足しているとは思う。
しかし、成績が良い子、それも、親による過度の干渉によらず、自己の才覚でもって成績を伸ばしているような子は、概してゲームなどのオタク文化に頭まで浸かっていた印象があることは確かだ。
クラスを見回すと、成績はパッとしないけれどもスクールカーストの高い連中(いじめっ子を含む)、カーストは低いけれども成績の良いオタク、成績もパッとせずクラスでも存在感を発揮できない層、があったように思う。
最後の層は概して、親からの強い支配下にあった。
周りを見回すと、ゲームに激しいハマり方をした人は良い学歴を持っている(サンプルに偏りはあるかもしれないが)。
『学歴=成功』とは限らないが、少なくともゲームは受験戦争に悪影響とは思えない。
私の知る、日本最高の大学を首席で卒業したという噂をもち、飛び抜けて仕事の出来る、絵に描いたようなスーパーエリート氏は、高校時代はシミュレーションRPGの虜だったと言う。
そのほか、私の親戚、友人知人などは、総じてゲームにハマり受験戦争を勝ち抜いてきている。

新型コロナによる休園の暇に任せて娘にいくつか買い与えた知育ドリルや知育アプリは、まるでそのまま、テレビゲームの要素を単純化したようなものばかりであると感じた。
結局娘にはポケットモンスターをやらせて(勝手にやって)いる。
娘はポケモンで文章を読むスピードを上げ、攻略本で漢字を覚え、レベルいくつで進化するのに対して現在のレベルがこれこれだからあといくつレベルを上げなきゃだとか、ライフがもう1/3あるいは1/4だからあと一発で死ぬだとか計算し、攻略本のレーダーチャートやマトリクス図を自力で読み、紙で手製のポケモン図鑑を作っている。
「じゅうに」と「にじゅう」の違いを理解できなかった娘が、レベル計算のために公文の数字並べ板を手離さなくなった。
なんで分からないのギャーギャーなどと私が言うより遥かに効果的である。

ゲームに依存してしまう心配は確かにある。
必ずしも学校や会社に勤勉に通う必要は感じないが、一人中部屋にこもって入浴も食事もろくにしないというのは心配だ。
また、課金は怖い。
対策としては、親や友人など、リアルな繋がりの中でプレイすることや、『自由と責任』ということを教えていく、ということが挙げられるかもしれない。
ゲームにハマるということと、生きていく上での責任を放棄するまでやり続けてしまうということは少々別の話である。
君子危うきに近寄らずとは言えど、自由には責任が伴うという点さえ押さえておけば、それほど悲劇的なことにはならない気がする。
自由と責任について20年ほど掛けてゆっくりと教えていく過程で、抗いがたい誘惑があるというのは寧ろ良い材料である。
なんなら、長い人生のうち、一度ゲーム依存になってみても構わないのではないか。
私の同窓生もオンラインゲームにハマりゲーム内で大出世をした結果、リアル世界で留年をしたが、その後無事リアル世界に復帰し、卒業し、希望する職業に就いている。
ブランクを乗り越え生活を立て直した彼を私は尊敬するし、そういう意味で彼のご両親の育児は大成功だったと思う。
転ばないことより、立ち上がることの方が重要なのである。

そして重要なのは、目の前のゲームがエンターテイメントとして作られたものであるか、課金マシーンとして作られたものであるかを見分けることと、ユーザーに提示されたルールの裏にあるビジネスモデルを見抜くこと、ひいてはそれが自分の生活に与える影響を考えることである。
そのサービスや商品により、誰がどう儲かるのか、それを考えることが出来れば対象との健全な付き合い方が出来ようし、それを考える力は、ただ知らぬままに恐れ遠ざけるだけではなかなか身につかないものである。


6. 喜びを遅らせることの効果に対する疑問

そもそも、喜びは後回しにすればするほど良いと言うものではない。
喜びには、それを得るに好適な時期というものがある。
私は、生来の吝嗇のため、娘が3歳くらいになるまで、世間から比べてもかなりおねだりへの対応を制限していた。
しかしそれを今では結構緩めている。
娘が2歳や3歳の頃に欲しがるものは、『その時』に得る事で最高の喜びと笑顔をもたらすことができるものであり、少し成長しただけで目もくれなくなるという事に気づいたからだ。
すぐ飽きるのだから与えなくてもよい、とも言えるのであるが、私は、そういうものを是非子供と一緒に楽しみたいと思った。
子供はすぐに成長して興味の対象を移してしまうので、今日この時を子供と楽しめるのは、間違いなく今日この時でしかないのだ。
若い時に旅行するのを我慢して、老後に旅行したとて、若い感受性で得られるものと同等の気づきや出会いを、老後の旅行で得られるだろうか。
少年少女にとってたまらなく面白いコンテンツ(ファンタジー小説、アニメ、ゲームなど)は、大人になってから見ると未熟すぎて楽しめない事が多い。
でも、少年少女時代に十分に楽しむことで、なんらかの価値を人生に産む。
若い頃に被服費を極端に削減したとして、我慢していたそれを老後に着て楽しむ事が出来るだろうか。
ファッションは自己の精神に大いに影響を与えるから、多少の被服費により自らに自信を与え、他者とのインターフェースを改善することができたならば、良い投資であろう。

結局、同じ対価からより多くの喜びを引き出すには、『客観的な物量』ではない『自分にとっての喜びの量』が最大となる時期を見極めることこそが重要なのではないか。
それは、単に後回しにすることでは叶わない。

マシュマロを一つのみゲットした子供は、悔しがり泣いたのであろうか。
「一つだけだけど早くゲットできて良かった」とか、「自分には一つでじゅうぶんだからこれでオッケー」と思う子供(足るを知る幸せな子供)はいなかったのであろうか。
「このわけわからん実験がいきなり中止にならないとも限らない。とりあえず一つだけでも益を確定させておくか」と考える子供は、リスクに対して慎重で利に聡いと言えなくもない。

おわりに

思うに、子供の熱中を邪魔してはイカンのではないか。
イノベーションを生むのは情熱であり、熱中である。
熱は、時間とともに劣化し冷めるのだ。
ヘリコプターペアレントいずくんぞ子の志を知らんや。
私はもう絶対に、人を試すような失礼なことを子供にすまいと誓ったのである。

というところまで思いを馳せ、本稿を書くにあたり念の為 Wikipedia のマシュマロ・テストの項を参照したところ、被験者を多くした再現実験では、マシュマロを手に入れた数(≒テスト時の自制心)よりも、経済的背景のほうが将来の成功に影響しているという結果が出た旨を読み、なーんだ、と拍子抜けした次第である。
ところで私は、経済的背景というのは額面通りではなく、大いに遺伝的背景に依存していると考えている。
稼ぐのに適した素質を持つ親の子は、やはり稼ぐのに適した素質を持つというふうに。
そういう意味では、あんまり子供を無理に抑えつけて叱咤しまくっても、それほど高い効果は見込めないのかな、と思う。
子供の素質を信じ受け入れ、大人になってから最低限、口に糊することができれば、それでいいのかな、と思う次第である。

 

同じ遺伝子の3人の他人(字幕版)