nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

令和のキッズが「操作性の悪いゲーム」に魅了される理由

子供から、 Heave Ho というビデオゲームに誘われ、プレイした。
これは、顔に手足が生えたような奇妙なキャラクターを操り、伸び縮みする腕を振り回し空中の物品に捕まりながらアスレチックをしてゴールを目指すアクションゲームである。
私は1分で投げ出した。

なぜか。

操作性が極めて悪く、思ったように自キャラをコントロール出来なかったからである。
このようなゲーム、さぞかしレビューが悪いに違いないと思い調べたら、予想に反して非常に評価が良い。
「なかなかうまく動かせなくて、友達と大笑いしながら盛り上がりました」
そんなレビューで埋め尽くされている。

な、なんだって!?
操作性の悪さが、面白さとして受け入れられている、だと!?

私はそれを見て、日頃、自分の子供たちが楽しんでいるゲームの中にいくつか、明らかに操作性の悪そうな動きをするタイトルがあることに思い至った。
Human Fall Flat, Getting Over It, Party Animals などだ。
これらはいずれも、プレイヤーキャラの体がぐにゃぐにゃとし、あるいは動物的な関節から乖離した身体構造を持ち、過剰にあるいは不規則に加速度演算の影響を受けているように見える。
そしてどれも世のキッズから大人気である。

調べてみると、一部界隈ではこのようなゲームを fumblecore games などと言うらしい。
fumble は「手探りする、もたつく」、core はジャンル名によく使われる接尾語だ。
「もたつき系ゲーム」とでも訳せるだろうか。
「操作性がぶっこわれている」ゲームのジャンルを指すようだ。
https://www.reddit.com/r/truegaming/comments/4ufzbb/bgames_what_are_they/

これらは面白いことに、操作性の不自由さをエンターテイメント要素としているのだ。
これらのゲームの取り上げられ方や、レビューをみると、以下のような傾向が見て取れる。

  • 数人で集まってプレイすることを前提としている
  • 必ずしもゴールすることを目的としていない
  • ゴールを目指す過程で起こる、はちゃめちゃなトラブルを楽しむことが目的である
  • 失敗が目的ですらある
  • 故に、操作性が悪い(=意図した操作ができない)ことがトラブルを生むための利点となる
  • わーわー騒ぎながら不恰好に失敗する姿が笑いを誘うため、動画配信と相性が良い

端的に言うと、子供たちにとっては「ままならなさ」をゲームという安全な環境で、ドタバタと笑いながら攻略するプロセスそのものが、たまらなく刺激的なレクリエーションになっているということだ。

私は考えた。
私の知るゲームの歴史では、ゲームは、いかにユーザーの意思をシームレスに操作に反映できるかを追求していたし、ユーザーは、いかに『速く』『正確に』ゴールに到達するかを追求していた。
もちろん、前回の記事に書いた Unrailed! はそういう『ゴール目的型』のゲームであるし、ゴール目的型のゲームが今もマジョリティであることは確かなのであろう。
しかし一方で、ゴールすることを目的としない、『失敗エンジョイ型』のゲームもまた、近年、大きなジャンルとして確立してきているのではあるまいか。

うーむ、これは、なんだろう。
我々の時代と一体何が変わったのだろうか。

一つ考えられることは、現代のキッズが現実世界で、より強く、『ゴールに向けて絶え間なく無駄なく効率的かつ計画的に努力すること』を求められているという背景があるかもしれない。

私は昭和の生まれであるが、私が子供だった頃は、子供には特に明確なゴール設定はなかった。
習い事やテストはあるにはあったが、『今のうちからゴールに向けて絶え間なく無駄なく効率的かつ計画的に努力しないと人生詰む』というプレッシャーは受けていなかった。
であるから、現実世界でクラスメイトと無為にハチャメチャに走り回って無様に転んで大笑いしていたし、その裏返しとしてゲーム内では明確なゴールに向けて『より速く』『より正確に』クリアに向けた努力をしていた。

現代のキッズは逆なのではないか。
現実世界では、『ゴールに向けて絶え間なく無駄なく効率的かつ計画的に努力』することが求められているし、公園ではボール遊びも大声を出してアホみたいに転げ回ることも禁止されているし、夏は暑過ぎて外で遊ぶこともできないので、ゲーム内でアホみたいに無為に無様に転げ回って、仲間たちと楽しんでいるのではないか。

つまり、現代のキッズは、現実世界で常に『最適化された行動』を求められ過ぎている。
だからこそ、ゲームの中で『非最適化の自由』を求める。
その自由は、無為の身体性の代替物として機能しているのだ。

Human Fall Flat や Party Animals でプレイヤーたちが転げ回って爆笑している様をみていると、昭和の夕方、公園で相撲のような謎のふざけあいをして爆笑していた子供達の影がふっと重なる。
あの『無為の身体性』は、いまやゲームの中に避難しているのかもしれない。

 

 

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たまにはゲームで家族のチームビルディング

最近子供たちと楽しんでいるビデオゲームがある。
Unrailed! というものだ。
簡単に説明すると、自動的に進んでいく機関車の行先に、プレイヤーが次々とレールを敷き、脱線しないように導いていくゲームだ。
昭和の勢の皆さんは、チクタクバンバン(※)を想像していただけるとよろしい。
※:1981 年に発売されたおもちゃ

チクタクバンバンと違う点として、レールの取得方法がある。
Unrailed! では、レールは、プレイヤーが機関車周辺の環境にある木を伐採し、あるいは鉄を採掘し、機関車の牽引するユニットに投入することで作成する。
つまり、機関車の進行と同時並行でレールを作成するのだ。
各ステージには駅があり、駅までのレールを敷いて機関車を導く。

進行中は様々なトラブルが発生する。
蒸気機関は定期的に水を掛けないと燃え出す。
したがって水を確保する必要がある。
水を確保するために、水場への道を拓く必要がある場合もある。
時に隕石が飛来してプレイヤーがリスポーンさせられたり、敵性生物がやってきて作業を邪魔してきたりする。

プレイヤーは以下のことを常に気にする必要がある。

  • 機関車が脱線しないよう、先んじてレールを敷く
  • レールが足りるよう、資源(木材、鉄)を確保する
  • 機関車の進路を計画する
  • 計画した進路に合わせて整地をする
  • 敵性生物を排除する
  • 機関が燃えないよう水を掛ける
  • 進行に必要なアイテムを取得する

どれもこれも、スピーディーな判断と行動を求められ、ミスると詰む。
最大4人で協力プレイをすることができるが、うまく役割を決めて、且つ臨機応変に対処しなくてはゴールできない。
やることが多く、マルチタスクを求められる。

私は日頃、歳をとってゲームを楽しめなくなって悲しいとぼやいているのだが、このゲームは珍しく非常に楽しんでいる。
これ、幼い子供を育てる中年ビジネスパーソンに非常に刺さる要素を持っているのはなかろうか。
なぜなら、以下の要素があるからだ。

  • 子供をリーダーにして自分は作業者に徹することで、自分が日頃チームに指示を出したりチーム全体を管理したりしなくてはならない立場から降り、一作業者として黙々と木を切るという非日常を味わいリフレッシュすることができる。
  • 非常に仕事っぽい雰囲気があるのに、失敗しても現実世界で被害がない。ちょっと子供に怒られておしまい。
  • 失敗を重ねるうち、こどもたちが勝手に PDCA サイクル(Plan, Do, Check, Action 業務改善や品質管理を継続的に行うためのフレームワーク)を回し始めて面白い。
  • 指示待ちすぎても上手くいかないし、勝手に動き過ぎても混乱が生じるので、勢い、「基本的な役割を決めた上で、相互に報連相しながら臨機応変に各自で動く」のような形に収束していくのが正に仕事のようで面白い。
  • 「娘は全体の状況把握と行動計画、メンバーへの正確な指示出しに優れるが、言葉が鋭くチームの心理的安全性を下げがち」「息子はチーム全体の面倒見が良く、心理的安全性を高める能力があるが、ともすると作業者という立場に陥りがち」のような、日常生活では見えない子供の一面が見えて楽しい。

日頃、職場で「チームの心理的安全性」や「自発的な成長」に心を砕き、気を張り詰めながらマネジメントに奔走している皆さん。
必死に指示を出さずとも、失敗を重ねるなかで自ら課題解決に向けて知恵をしぼる我が子の背中を「ただの作業者」として木を切りながら見守る時間は、何よりの贅沢なリフレッシュになるはずだ。

これから夏休みが始まる。
楽しみながら家族のチームビルディングをするのにおすすめのゲームである。

 

 

流すなよ、流すなよ、(勝手にトイレを)絶対に流すなよ

この世から切実に消えて欲しい、あるいは改善してほしいものがある。
トイレの自動水洗機能である。
あれは一体、どういうニーズに応えたものなのだ?
トイレを流さない不届者のためか?
仮に、稀にいる、トイレを流さない不届者のための機能だとしよう。
不届者のパーセンテージに対して、デメリットが多すぎないか?

私が自動水洗機能に感じている不満は「勝手なタイミングで流れる」ことに尽きる。
あのさ、皆さん、そんなに、百発百中の確実性をもって、座った体勢、しかもかなり深く座った姿勢のままで拭き切ることが出来るのですか?

拭くためにちょっと前傾姿勢になる→自動水洗作動→アウト!

座ったままで拭きにくいところを立って拭く→自動水洗作動→アウト!

次に使う人のため、便座をクリーナースプレーで軽く拭いておこうかな→自動水洗作動→アウト!

私は毎回このような感じだ。
ゆるさん。

一度、子供の嘔吐物が入ったビニール袋の中身を流そうとして、一緒に袋に入っていたレシートが自動水栓によって流されそうになってしまい非常に慌てたことがある(無事回収した)。

水を流すタイミングくらい自分で決めさせて欲しい。
毎回、複数回、水を流すことになって、水が勿体ないではないか。

昔、かかりつけの歯医者がこんなことを聞いてきた。
「なぜ、沢山の種類の歯ブラシがお店に売っていると思いますか?」
私は答えた。
「資本主義社会においては常に新製品を開発し他社と差別化を計ることこそが生存戦略だから」
と。
私はイノベーションが価値を産む世の中、変化が価値を産む世の中に生まれて心底良かったと感じている人間であるし、清潔な日本のトイレが、ちゃんと床までドアで隠される日本のトイレが大好きである。
しかし自動水洗機能だけは許せないのである。

では、こういうのはどうですか?
あらかじめトイレアプリをスマホに入れておいて、個室内のリーダーに読み込ませると、勝手に自動水洗がオフれるのだ。
いやいや、そこまでやるのであれば、もういっそのこと、トイレパーソナライズアプリとして汎用性を持たせよう。
個人設定によって、
・自動水洗のオンオフ
・自動水洗の作動するまでの時間
・自動水洗の作動するセンサー距離
・便座温度
などなどをあらかじめ決めておけるのだ。
ドアを開けたらそのその個室に対して読み込まれた内容はリセットされる。

トイレに入るたび、スマホを開いてアプリを起動してバーコードを読み取らせて、とやるのはイケてない。
トイレに行列ができてしまう。
スマホやスマウォでピッとやりたい。
つまり、ICカードの番号をキーとして、サーバーへ個人設定を取りに行くのだ。

え?
コストがかかる?
じゃあ自動水洗機能ごとやめてください。
パーソナライズされた高級トイレか、自動水洗機能のないノーマルトイレか、二極化して欲しい。
私の!⚪︎⚪︎⚪︎を!勝手に流さないで!

 

現代のサラリーマンは甘えているのか

東京の住宅費高騰が目覚ましい。
ネット記事ではたびたび、「真面目に働いているのに家賃が高すぎて、普通のサラリーマンでは23区内に住めない」というような記事を目にする。
最近は、売り出し価格と成約価格の乖離がひろがる「ワニの口」という傾向がみられるようになったという話も耳にするが、まだまだ高い。

しかし、昭和生まれの私は思うのだ。
言うほど、サラリーマンが23区内に住めた時代は長かったか?と。

私が生まれ育った昭和末期から平成初期にかけては、バブル景気に伴う地価高騰が目覚ましく、平均的な「真面目な」サラリーマンは、東京郊外あるいは周辺六県のニュータウンなどに居を構え、片道2時間以上かけてエクストリーム通勤を行うことが普通であった。
ようやくサラリーマンが23区内に住めるようになったのは、平成も半ばにさしかかり、1997年の規制緩和によりタワーマンションが乱立するようになってからだと記憶している。

つまり、昭和生まれの私から見ると、「平均的なサラリーマンが23区内に住めないのなんて、当たり前だのクラッカー」であるのだ。
なんなら、前述の嘆きは酷く甘えたものに見える。

しかし。
昭和と令和で大きく異なる事情が一つある。
共働き世帯の増加によって、夫も妻も仕事家事育児をすべて担うことがスタンダードとなったことだ。
可処分時間を考慮すると、夫婦二人ともが残業プラス片道2時間の通勤をしたら、子育ては出来ない。
保育園の発熱呼び出しのあと、2時間後にお迎えって実際許されるのだろうか?

そう考えてみると、現代のサラリーマンが片道2時間のエクストリーム通勤をしたがらないのは、特に甘えということでもなく、「物理的に不可能なのだ」とも言える。

寧ろ、仕事あるいは家事育児のどちらかしか主担当として担わなくて良かった昭和末期〜平成の人々のほうが、配偶者に、あるいはそれを是とする社会システムに、甘えていたとも言えるのかも知れない。

かつて、2時間かけて会社に通うことが『真面目さ』の証だった。だが、夫婦で命を削って時間を奪い合う現代において、その美徳はもはや成立しない。

昭和の人が郊外の空気を吸いながら庭付き一戸建てを手に入れたように、令和の私たちが自由を勝ち取る唯一の道。
それは、

『みんな、可能な職種の人はテレワークしようよ』

という、至極全うな職住一致への回帰なのかもしれない。

世界人口のうち2割くらいは自分の事を嫌っていると思って生きることの効用

息子はまだ年齢的に、組織の中のコミュニケーションということに長けていない年齢である。
そういうことをまだ勉強中の年齢である。

ゆえに、時々、クラスメイトに悪口を言われたなどと泣いて帰ってくることがある。
そんな時、息子に話すことがある。

地球には現在80億人くらいの人間がいるが、そのうち2割、つまり16億人くらいの人間は自分のこと、つまり私やあなたのことを嫌いであると思って生きていった方が良い、と。
そして5割くらいはあなたのことを好きでも嫌いでもなく、最後の3割くらいはあなたのことを好きかも知れない。

これをクラスに落とし込むと、まあ6人くらいからは、あいつ、いけすかないなあ、と思われているかも知れないということだ。

どんな人間であれ、全人類から好かれることは無理である。

表現や創作に手を出したことのある方には分かるだろう。
全員から良い評価を得ることは不可能だ。
誰かしらに批判はされる。
それを受けて、「全世界から拒絶されているのだ」と思った者から脱落していく。
100人から批判されても、2人くらいから評価されれば良いと思う者のみが続けることができる。

批判の声を、全人類からの声であると思わぬ方が良い。
除夜の鐘の音にせよ、公園や保育園での子供の遊びの声にせよ、ネット上に溢れる罵詈雑言にせよ。

「クラス全員で仲良くしましょう」
というのはまず不可能だ。
分別のついた大人であれば、本心を隠しつつ上手く距離を取って差し障りのないやり取りは出来るかも知れないが。

自らを嫌う16億人のうちの数人の声がたまたま耳に入ったからと言って、まあ、絶望するほどのことではないのだ。
残り64億人の方に目を向けよう。

 

 

他人の姓ってそんなに気になるか?

私は結婚するにあたり、姓を夫のそれに変えた。
私は自分の元の姓が好きではなく、また特にこだわりが無かったので、変えた。
しかし、パスポート、運転免許証、クレジットカード、銀行口座など、各種変更の手続きはかなり面倒であった。
何故私だけが、有給休暇を消化して、あるいはプライベートの時間を費やして、このような面倒な手続きをしなくてはならないのかと思っていた。

「パスポートの姓変更の手続きのために有給休暇を申請します」
と私に言われて、
「パスポートって旧姓のままでも使えるらしいぞ?(だから有休を取るな)」
と返してきた当時の勤務先の上司の言葉を私は一生忘れないだろう。
私が海外の入管で止められた時、あるいはクレジットカードとパスポートの名義の違いにより海外のホテルで面倒な事態に陥った時、あなたが現れて説明してくれるのでしょうね?
自分自身は配偶者に姓を変えさせたのでプールサイダーでいられる立場の上司が。

なお予め断っておくと、我々夫婦の経済的優位性は同じであると考えて頂いてよろしい。
長い人生で、夫の方が経済的優位性を持つタイミングもあれば、逆もまたある。

だから、経済的優位性と姓の名乗りを紐づけるのはナンセンスであり、全く無関係な問題であるという立場を私はとっている。

ここで、姓変更手続きに掛かる時間的金銭的コストについて計算しておこう。
時間的コストは金銭的コストに変換可能であるから、単位は金額(JPY)で出すとする。
姓変更手続きが必要なサービスのリストを以下とする。
本当は、不動産名義や法人の名義、職業に関わる免許の名義の変更などもあるのだろうが、ここでは割愛する。
また、各種通販、スマホ、すべてについて手続きが必要であるが、ここでは単純化のため割愛し以下をパラメーターとする。

・パスポート
・運転免許証
・銀行口座(3口座とする)
・証券口座(1口座とする)
・クレジットカード(3枚とする)

パスポート変更のための時間的コストを 16h、運転免許証については 4h、銀行口座、証券口座については 1口座につき 4h、クレジットカードについては1件につき 2h と仮定すると、合計で  42h の時間的コストが掛かる。

姓を変更する性別は、現状、95% が女性であるという。
以下の資料をもとに、結婚前後にかかる女性の有職割合を 50% であると仮定する。
男性については結婚前後にかかる有職割合を 99%以上であるとし、丸めて100% と仮定する(データが見つからなかった)。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/judan/seinen09/kekka3-3.html

女性の平均年収を 314万(JPY)、男性の平均年収を 569万(JPY)であると仮定する。

女性の有償労働時間を 1446 h/year、男性は1825 h/yearと仮定する。
すると、女性の平均時給は 2171 JPY/h, 男性は 3117 JPY/h である。

2024 年の年間婚姻件数は 48.5 万件であった。
さきほど算出した、姓変更コストと姓変更の男女比、および男女別の時給をもとに年間の姓変更コストを算出する。

年間婚姻件数 * 女性の姓変更割合 * 有職割合 * 1婚姻にて発生する姓変更の時間的コスト * 女性の平均時給 +
年間婚姻件数 * 男性の姓変更割合 * 有職割合 * 1婚姻にて発生する姓変更の時間的コスト * 男性の平均時給
で表せる。

485,000 * 0.95 * 0.5 * 42 * 2171 + 485,000 * 0.05 * 0.9 * 42 * 3117  = 23,863,251,300

えーと、240 億JPY/yearくらいですね。
結婚に伴う姓変更のために失われる労働収益が、年間 240 億円。
10年で 2,400 億円。
実際は、申請者側だけではなく、申請を受け付ける側にも時間的金銭的コストが発生するわけだから、この何倍かにはなるだろう。
ただしその分は経済活動として相殺されるとしてもよい。

こう書くと実感の湧く数字ではないかもしれないが、パートナーのどちらかだけが突如 8~12万円失わなくてはならないと考えると、結構釈然としないものがある。

話は逸れるが、私は某通信会社のサービスを多く利用している。
仮に、 hogehoge 通信と呼ぼう。
hogehoge 通信は、携帯電話サービス、光通信サービス、GPS による子供見守りサービス、銀行サービス、コード決済サービスなどを手広く提供している。
それらすべてにアカウントが必要であり、hogehoge ID というアカウント体系により管理される。
しかし、個々のサービスに加入する際に、既に所持している hogehoge ID との紐づけが促されることは稀であり、たいてい、新規に hogehoge ID を発行することになる。
それはおそらく、ユーザーは多くの場合 ID を忘れており、「アカウント ID はなんだっけ、パスワードはなんだっけ」などどやっていると時間がかかるのと契約契機を逃すおそれがあるので、多くの代理店および公式ウェブサイトが、新規で発行することを選んで(選ばせて)いるのだと思われる。
したがって、一人のユーザーに対していくつもの hogehoge ID が発行されていくこといなる。
これは非常に混乱した状況であるので、 hogehoge 通信では、「hogehoge ID おまとめサービス」という機能を提供している。
これは、無限に増殖した hogehoge ID を、ネット上の手続きにより統合する機能である。
hogehoge 通信ユーザーページで派手に宣伝しているものであるので、 hogehoge 通信会社としても世に無限増殖する hogehoge ID に対する課題感はもっているのであろう。
私もこの機能をもってして、増殖した hogehoge ID の統合を試みたが、これは非常に困難なものであった。
まず、 hogehoge ID には、内部で管理される実キーと、ユーザーがエイリアスとして利用できる表示用キーがある。
最初に発行されたランダム文字列のキーでログインすると、「電話番号やメアドでログインできるようにしませんか」的なリコメンドがある。
そして、そのようにすると電話番号またはメアドをログイン名として利用できるようになるのであるが、ここで内部的にある変化がおこる。
ここで設定した「ログイン名として利用できるようになった電話番号やメアド」は実キーではなく、エイリアスに過ぎない。
そして、恐ろしいことに、実キーは、ユーザーがいっさい認識できないうちに、末尾にランダムな数バイトが付与された別のものに変化するのである。
つまり、もともとユーザーが認識していた実キーでは、ログインできなくなるのである。
これは通常問題にならない。
なぜなら、ユーザーは以後、電話番号やメアドでログインするようになるからだ。
しかし、 hogehoge ID おまとめサービスでは、エイリアスを利用できない。
実キーで指定する必要がある。
しかし実キーを指定しようとしても、「そんなユーザーはいない」といわれる。
実キーはユーザーの預かり知らぬうちに、末尾にランダム数バイトが付与された別のものに変化しているからだ。
困り果てた私は、サポートに連絡して、おまとめの手伝いをしてもらう=現在の実キーを教えてもらうハメになった。

hogehoge 通信のサポートの男性が、おまとめの際に
「おまとめ先とおまとめ元で、名義が一致している必要があります。名義は何ですか」
という。
私は、人生で何回でも変わる可能性がある情報に、ユーザー同一性の担保をさせる設計であるわけがないと思い、
「名義というのはどのプロパティのことですか?」
と聞くと、
「名義は名義です」
という。
「氏名のことですか? でも氏名は変化する可能性がありますよね?」
ときくと、
「はぁ〜〜〜(呆れ)、だからあ! 姓が変わった時に変更手続きをしていればいいだけでしょ!」
と激怒された。
私はちゃんと改姓時に姓を登録しなおしているし、極力丁寧にサポートの男性と接したつもりであるが、それでもサポートの男性からは激怒されるのである。
hogehoge 通信のアカウント体系が、人生で何回でも変わる可能性がある情報に、ユーザー同一性の担保をさせる設計ポリシーであるせいで。
そもそも改姓強制の仕組みがあるせいで。

今、私がネット上で利用しているアカウントサービスは200をゆうにくだらない。
改姓時には、これら膨大な数のアカウントの姓を変えてまわる手間も必要なのである。

閑話休題。

選択的夫婦別姓制度の議論がある。
この議論、私はひとつ大きな疑問があるのだが、他人の姓ってそんなに気になるか?

「田中さんが田中さんであり続けようとすることは特に構わないと思うから賛成」
これはわかる。

「鈴木さんになりたい田中さんのことも特に阻止しようと思わないから賛成」
これも、わかる。

「田中さんは鈴木さんにならなくてはいけない!
 田中さんが田中さんであり続けることは断固阻止する!」
え、それってどういうこと!?
あなたと田中さんに、一体何の関係が?
選択的夫婦別姓制度が導入されても、あなたは自分の姓を変えようが変えまいが、自由なんですよ。
なんで見も知らぬ田中さんの姓にそれ程執着するのですか?
同姓を選択した人には、何のデメリットもないと思うのだが。

まずそれが分からない。

彼ら/彼女らは言う。
「家族の一体感が失われる」
「日本の伝統が失われる」
「戸籍制度が破壊される」
と。

うーん、わからない。
「一体感」とはなんなのだ。
「伝統」という言葉の定義は?
「伝統」が開始されるのは何年から?
「戸籍制度が破壊される」という根拠は?
「破壊」の定義は?

子が親と異なる姓になるのが不憫という声もあるようだ。
しかし、私は夫の姓となり、私の両親と私とは異なる姓となった。
それにより特に親子でなくなったとも思わぬ。
親が病院で危篤になれば、私は姓は違えど子として面会するだろう。
既に現行法でも、親子で姓が異なる状況は生まれておる。
親と姓の違う私は不憫かい?

また、選択的夫婦別姓制度下においては、夫婦の姓を統一したいと考える人は、自分のほうが姓を変えれば良いだけなので、トラブルにはならない。
姓を変えたくない人、夫婦で姓を統一したい人、誰も困らない。

まさか、「自分は姓を変えたくないが相手にはどうしても姓を変えて欲しい」などというジャイアニズムを発揮してくる人もなかなか居ないだろう。

仕事で何かの提案を顧客に対して行う際、複数の案を比較するための表を作るだろう。
比較の表のセルに、「家族の一体感が維持される/破壊される」、「日本の伝統が維持される/失われる」などと書いた資料を、もしも私が提示したら、顧客からは

「こんな表で比較できるか!
 全くわからん!
 言葉を定義しろ!
 数字で示せ!」

と突き返されるだろう。

これらの言語のベースは、「感情(sentiment)」である。
論理的ではなく、合理的ではなく、客観的でもなく、感情である。
感情論である。
別に感情論がいけないとは言わない。
政治の世界では、客観的な数字を示すことに価値はないと聞いたことがある。
数字ではなく感情で会話するユーザーがメインターゲットであるからだ。

ドイツの⚪︎⚪︎⚪︎ーは国民にデータを提示することに労力を割いたわけではなく、徹底的にセンチメントを煽った。
そして選挙に勝ったのだ。

仮に、「家族の一体感」という曖昧模糊としたものを、離婚率でもって数値化するとする。
しかし、現状日本では別姓が認められていないので、比較することができない。
他国と比較しようにも、国家間の制度や宗教観、男女間賃金格差の違いによる影響が大きすぎて、単純に別姓の影響のみを考慮した比較が難しい。

つまり、「家族の一体感」や「伝統」というセンチメンタルな観点では、比較ができないということになる。

次に、旧姓の利用拡大について。
私は、旧姓の利用拡大が本件の解決案になるとは全く考えていない。
いくら旧姓の利用が拡大しても、ユーザーの姓変更手続きに掛かる時間的金銭的コストは変わらない。
それなのにシステム変更のコストは掛かる。
おそらく、選択的夫婦別姓にした際のシステム変更コストよりもはるかに大掛かりなシステム変更が必要になる。
また、旧姓の利用拡大は完全に日本国内向けの閉じられた仕様であって、他国からは理解されず、他国の入管やホテルや店舗や学会で混乱とトラブルを産む原因にしかならない。
日本の発行する身分証明書の類の、国際的な信用を落とすことにしかならないだろう。
これは、旧姓の利用拡大に伴うトラブル発生時に領事館へ問い合わせが発生する件数などにより数値化できるかもしれない。

民間でも対応が必要だ。
戸籍上の姓のほかに別姓使用への対応まで検討しなくてはならないとしたら、もう、ただでさえ複雑に肥大化した hogehoge 通信のアカウント体系など、一体どうなってしまうのか。
別姓利用をいくら拡大しても、拡大しきれないところにかならず乗り越えきれないギャップがうまれる。
そこで生じるのは、今まで以上の『個人を表す情報の連続性の喪失』である。
hogehoge 通信の例を見るまでもなく。

ゆえに私は、一人の技術者として、別姓の利用拡大には反対の立場をとらざるをえない。

選択的夫婦別姓に根拠をもって反対するには、何か客観的に比較可能な、数字に変換できる観点を示すしかないのだ。

これは、システム変更コストを観点として持ち出すほか、ない。
何も要件を変更しなくても、システムというものは定期的に更新しなくてはならない。
仮に、10年に一回システムを更新すると仮定する。
このときのコストを1とした場合、選択的夫婦別姓化にともなうコストは、初回は、5程度となるだろうか。2回目以降は1である。
旧姓の利用拡大に伴うシステム変更はもっと複雑で、控えめに見積もっても、初回 10 くらいになるのではないか。
しかし、現状、すでに徐々に旧姓の利用は拡大されているということだから、旧姓の利用拡大を是とするグループでは、そこのコストはあまり重視していないということなのだろうか。

とにかく、選択的夫婦別姓問題を根拠をもって論じるにはシステム変更コストを持ち出す他ないと思うのだが、私の観測範囲ではそのような主張は見られない。
いつもいつもいつも、センチメンタルな論点ばかりが持ち出される。
これは選択的夫婦別姓に賛成/反対どちらの人々についてもあてはまり、「自分の姓に誇りをもっているから」「先祖の姓を絶やしたくないから」という、センチメンタルな論点が持ち出されてしまうので、客観的な議論にならないのだ。

最後に、私は別に、センチメンタルであることを否定しない。
客観的に比較できる時間とお金という指標で幸せを測り始めたら、子供を産む人はいなくなる。
私は、子供を可愛いと思った瞬間のセロトニン分泌量という、数値化の難しいものの虜であり、時間とお金がいくら失われても、このセロトニンの方に価値をおいている。

ただ、「家族との一体感」や「伝統」という価値観に対しては、嫁による介護や、パートナーによるDVなどネガティブな面と隣り合わせであるので、警戒するし、また、数値化できないものを基準にしては客観的な議論ができない。

ユーザーが納得できる議論を行うには、客観的に比較可能な指標を基準とするしかないと思うのだが、現行の政治システムがセンチメントを重視する仕組みである以上、難しいものであるなあ。

 

 

無意識に子育てを社会のサブストリームであると思っていた件

一つ前の記事にて、私は

自らこの服を着る時、我々は、「社会のメインストリームからの干渉を敢えて遮断する」という意識を持っておりはしまいか。

 

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という書き方をした。
しかし読み返してみると、私がいかに社会における子育てというものを軽視していたかということに気付かされる。

私は、基本的に、『コミュニティ』ひいては『社会』というものは、『安全に子育てするため』に作られたものだと考えている。
それは、文明というものの歴史を振り返ってみてそう思うからである。

しかし現代において、都市というものは子供を排する性質を持っている。
子供というものは無秩序であるが、都市は無秩序を許容しない。

乳幼児は、無秩序である。


大人の為にデザインされた秩序立った生活とは、存在自体が相容れない。
秩序立った生活とは、各人の生命と権利が守られ、理不尽が無く、因果関係が明白で、原因があり結果に繋がり、自分で現象をコントロール出来る生活のことである。


乳幼児との生活は、それらすべてが破綻する。

ゆえに、私はつい、『大人を中心とした経済活動』を社会のメインストリームとして考えてしまう。
しかし本当は、『子供を保護し育てるための活動』こそがメインストリームであるべきである。
そうでなくなったのは、人類が豊かになり人権意識が高まることで、子供を持つことがプレミアム化したからである。
私はそれは自然の流れだと思うけれども、その流れの中でつい、子育てをサブストリームとして考えてしまいがちであるという自分の癖が露呈したので、気をつけたいと思った次第である。

 

 

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