私が上の子の出産のため、里帰りしていた時のことだ。
臨月の私に向かって父が言った。
「墓を買った」と。
以前書いたことがあるが、父は地方の農家の長男である。
父の父が先の大戦で戦死したため、父は3歳くらいで家田畑を相続し、やがて長じてそれらを義理の兄弟に渡して単身アメリカへ渡ったのだ。
従って、家督は義理の兄弟に渡しており、墓も彼が守っているということのようだ。
父はやがて日本に戻り、母とともに我々姉妹をもうけたが、そういうわけで父と母の入る墓というものは無かった。
だからと言って墓を買おうなどと今まで誰も言っていなかった中、突然の墓購入宣言に私は戸惑った。
父は、そもそも信心深いタチではない。
故郷をすて、高度経済成長期に建てられたニュータウンに住む多くのサラリーマンと同様に、いや、それ以上に、宗教などというものを非科学的なものとして半ば下に見ている、平均的な都市部のサラリーマンであった。
コンピューター技術者という性質上、寧ろその性質は他所の父親より強かったように思う。
ゆえに、われわれ子供関連の伝統行事の類いは概ね蔑ろにされてきたと言える。
であるから、娘ばかりが産まれて、残らず嫁いだあの実家は、おそらく、しがらみのない何らかの方式で遺骨の処理をするつもりなのだろうと思っていた。
それなのに。
出産して一ヶ月経ち、明日は自宅に戻るという日、父は言った。
「購入した墓を見せたいから、来るように」
と。
私に、まだ新生児の娘を置いて、車で20分程度の墓地に来いと言う。
父は、母にその間の新生児の世話をするよう言ったが、母は孫の相手や世話など絶対にやりたくないという人であり、
「(赤子の世話の方法なんて)知らない、出来ない、やった事ない、自信ない」
という言葉を連発していた。
なお、私はこの時この言葉から、母を『私を育てた人』として認識することをやめた。
正確には、この前後で母が私を育ててきた頃のエピソードを、何もかも、本当に何もかも忘れている事が判明し、そんなことから徐々に、『この人は私を育てたあの母ではないのだ』と認識するに至ったのだ。
そして、そんな母に新生児を押し付け、会陰の縫い目も塞がらないまま、私は車に20分も揺られて墓を見せられた。
出産直後の人間は、判断力が弱る。
行動力も決断力も弱る。
今なら絶対に行かなかったのに。
本当に、出産すると社会的な力の一時的剥奪が起こるのだ。
この時はとにかく、揺れる車中で股の縫い目が痛かった事だけが印象に残っている。
墓のことは心底どうでも良い。
なぜ父は突然墓を買ったのか。
父が言うには、アメリカ時代の旧友に、「おめーら日本人の墓めっちゃ陰気w 死ぬほど湿っぽいw あんなとこ死んでも入りたくねーわw(意訳)」
と言われ、発奮して明るい墓地を探したのだということだ。
「ウチはウチ、よそはよそ」でしょ、お父さん。
ところで日本における墓は、イエ制度に深く結びついている。
「墓を継ぐ」という言葉の通り、明治時代の家父長制に則り長男が先祖代々の墓を守る。
父は、男児を持たない。
我々姉妹は結婚して姓が変わっている。
だから、日本文化に於ける『墓』が家父長制に則っている以上、せっかく買った父の墓を守る人は本来、居ないのだ。
一体誰に守らせる気だ。
元来、父は倹約家である。
私が、
「車の維持管理費より遥かに安い」という理由で車を買わずにタクシーに2万円払おうとしていた時でさえ、「勿体ない、電車を使え」などという。
私の金だ、放っておいてほしい。
複数の乳幼児を連れて、ベビーカーと大量の荷物を抱えてエレベーターの無い実家最寄り駅の階段を登り降りし、2時間掛けて電車で帰省しろというのか。
ご自分は、『生きている間一度も使わないことが確定している石の塊』、つまり墓に大金を払うのに。
父は「金は勉強など投資になることにのみ使え」と言うくせに、墓という、全く未来につながらない物品に大枚をはたくとは一体どういうつもりなのか。
そもそも、図々しい話ではないか。
父はしきりに、我々子孫に墓参りに来て欲しいような事を言うが、そんな石の塊を磨くためだけに丸一日かけて移動しろと言うのか。
子供には、もっと未来に繋がる有意義な事に時間を使って欲しいけどな、私なら。
私は、自分の骨は通販の遺骨引き取りパックで引き取って貰えばそれで良いけどな。
私なら、自分の子には、私の弔いになど、時間もお金も一切掛けて欲しくないけどな。
老いて死が近づくと、論理的な人間でも宗教めいてきてしまうのだろうか。
私は、より良く生きるために宗教は時に役に立つと考えているが、同時に、弔いは生者が死を乗り越えるために『生者のために』行われる事だと思っているので、それをどのように行うかは生者に任せておいて欲しい。
自分が死んだ後、他者が自分をどう思いどう扱うかなんて、本人には絶対に認識出来ないことなのだから、本人にとってはどうでも良いだろうと思うのだが、老いると、『死後も子孫に尊敬して欲しい』などという俗っぽい欲が湧いてきてしまうものなのだろうか。
それならば、せめて技術書の一冊も出版しておいてくれれば、それを位牌として父の業績を偲ぶこともできように。
石の塊、しかも2時間掛けてオンサイトでアクセスしなくてはならないようなシロモノでは、偲びようが無いではないか。
二酸化炭素を排出しながら頑張って現地まで出かけて、得られる情報が『〇〇家ありがとう』のたった16バイトなんかーい!
石という、永続性がハンパない記録メディアに残すべき情報が『〇〇家ありがとう』で良いのか。
もっとこう、回路図とか、未来に繋がる情報を刻んで欲しかった。
そうすれば「ほらあれがあなたのおじいちゃんの書いた回路図だよ」とか、そういう自慢が子孫にできただろうに。
そもそも、真に尊敬に値する生き方をしていれば、石などなくても自動的に子孫に偲ばれるのではないだろうか。
正直、そんなものを守りたくも無いので、早々に墓じまいなどしたいが、墓じまいだってお高いんでしょう?
でも我々の代でしまっておかないと、私の子たちに負担を掛ける事になる。
あー、もう、なんということだ。
私は絶対に、骨になったら遺骨引き取りパックで引き取られたい。