nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

令和版『スマートな日本人』が読みたい

サトウサンペイ氏の書いた、『スマートな日本人』という本がある。
1980年に刊行された、マナー本である。
仕事や娯楽で海外へ出始めた当時の日本人に向けて、欧米先進諸国のマナーや、そのほかの様々な国々のマナーを、漫画とユーモアを交えて書かれている。
姉妹本として、『ドタンバのマナー』という本もあり、こちらでは日本国内のビジネスシーンにおけるマナーについて書かれている。
私はこれらを、かれこれ30~40年読んでいる。
正確には、子供の頃愛読していたのを思い出して、改めて購入して子供と一緒に読んでいるのだ。
しかし、やはり時代が変わればマナーも変わるので、今見るとちょっと時代に合わないな、と思う部分もある。
更に、人々の意識が変わって新たに心に留めなくてはいけないマナーも発生しているように思う。

そこで、令和にふさわしい振る舞いを解説してくれる、同様の本があれば良いのになと思うのであるが、サトウサンペイ氏に書いていただくことはもはや叶わないので、僭越ながら、私がにわか失礼考案者となり、令和私家版、『スマートな日本人』を書いてみようではないか。

容姿を褒めない

容姿を貶さないのはもちろんのこと、褒めるのもダメ。
「背高くてカッコイイですね」
「痩せて素敵になりましたね」
など、いくらポジティブな思いで言ったとしても、本人が良い思いをするかは別。
何より、『人を外見で判断することを隠そうともしない危険人物』と認識されます。

実際は生きる上で容姿で判断されるシーンが多いとしても、そこは本音と建前。
「私は目の前の人は『脳』としてしか認識していません」
というポーズを貫きましょう。
履歴書に写真を貼ることを応募者に求めるのももはや危険な行為。

更には、飲みの席で
「肌の色が白くて美人ですね」
などと言った日には、人種差別主義者として厳重注意されるでしょう。

一方、
「その新しいジャケット似合うね」
は、本人の容姿に対する言及ではなく、ジャケットと本人との関係性に対する言及なのでOK。

飲み会の店選びに注意

牛肉を食べない宗教、豚を食べない宗教など、いろいろあります。

 

人の食べ物に言及しない

「え? 今度のイベントのお弁当、キミいらないの?
 自分でお弁当持ってくるって?
 なんで?
 タダだよ、美味しいよ?」

なんて無邪気に問い詰めないこと。
宗教だけでなく、感覚過敏だとかヴィーガンだとか、何かしら食べ物にこだわりのある人なのでしょう。
それを他者に話す義務はありません。


プライベートなことを聞き出さない

「彼氏(彼女)いるの?」
「結婚してる?」
「子供いるの?」
などはどれも、家族計画や性的嗜好に関わるセンシティブな質問です。
「ハハッ、そーすね」
と流している裏側で、
「(彼女(彼氏)じゃなくて彼氏(彼女)がいるんだよ)」
とか、
「(不妊治療大変なんだよ、聞くなよ)」
などと内心思われているかもしれません。

「パートナーとは休日どうすごしてる?」
くらいがギリギリOKな線か。

関係性が良くなってきたら、話しても大丈夫なことは自分から話すでしょう。
こちらからは聞かない方が良いです。


年齢を聞かない

年齢で上下関係を確認しないと話すことも出来ない儒教文化では不便ですが、年齢を聞くのはとても失礼なこと。
相手の『年齢』という属性によって話し方や態度を変えるという行動がそもそも良くありません。
年齢と能力には絶対的な相関性はありません。
『何歳に見えますかクイズ』も、意味不明でセンシティブなゲームです。

 

相手のパートナーの勤務先の上司と同僚に思いを馳せよ

「え?
 子供を病院に連れて行くから出勤できないって?
 そんなの奥さんに任せなさいよー」

と部下に言う時は、部下のパートナーの勤務先に負担を押し付けようとしていることを自覚すること。
部下のパートナーの上司にその場で直接電話を掛けて、

「ウチの会社の業務内容の方が社会的価値が相対的に高いので、おたくがコスト負ってくださいよ」

と言える勇気のある者のみが冒頭のセリフを吐くこと。
その際は、部下のパートナーが取引先の有力者であるとか自社の大株主であるとかいったパターンも当然想定しておくこと。
更には、老人ホームに預けた老母の面倒を診てくれている本日の介護士のシフト担当者が偶然部下のパートナーであるといったパターンも想定しておくこと。
「自分がここで断ったら見知らぬ誰かがう●こまみれになるかもしれない、それは巡り巡って未来の自分の姿なのかもしれない」という心意気でいること。
会社が人繰りに留意してくれないのなら転職も視野に入れること。


カメラONを強要しない

オンラインミーティングで突然カメラONを求めないこと。
いろいろ準備が必要かもしれません。
『意味もなく人の顔を見たがるヤバいやつ』と思われるおそれも。

 

出身地トークは慎重に

出身の国や地域は、センシティブな話題につながってしまうこともあります。
聞かれたくない人もいます。
一方で、楽しい話題につながり盛り上がる可能性もあります。
どうしても話題にしたいのなら、くれぐれも慎重に、相手との関係性や、その場のメンバーの組み合わせに注意して取り上げましょう。


身につけるもののマークの意味に注意

例えば、魔法っぽさの可愛い六芒星ですが、戦争をしている国の国旗に使用されていることもあります。
それが描かれた魔法っぽいカードケースを、「かわいー!」などと無邪気に身につけていたとして、当該国と敵対する文化圏出身の人が同僚にいたら、どういう印象を与えるかに注意しましょう。


感情を露わにしない(怒らない)

ビジネスの場で、しかも人前で、感情的に部下を怒る。
それは確実に『ヤバい人』です。
マネジメントの本を何冊か買って、部下に対する効果的な注意方法を学ぶ必要があるでしょう。

 

休みの理由を聞かない

何かしら人に言いたくない事情があるかもしれません。
業務上の必要性と法的妥当性が無いならば聞かないこと。

 

同僚の働き方を気にしない

あなた以外の社員は、『あなた』とではなく、『会社』と契約をして働いています。
勤務時間や勤務方法、業務内容、報酬にいたるまで、契約内容はあなたと違うかもしれません。
「なんであいつだけテレワーク可なんだよ」
と、あなたが嫉妬することに正当性はありません。
不満があるならば、自分の契約内容を変えられないか、自分で会社と交渉すること。

 

結局のところ、ケア労働の責任は誰にあるのか

ヤングケアラーの話題が盛んである。
『大人がやるべきケア労働を、未来ある子供に押し付けやらせるべきではない。
 子供は自分の人生を生きるべきだから』
ということだ。
ふむ、もっともである。

尚ここでは、ケア労働を『近親者あるいは姻族のための無償労働』と定義する。

では、そのケア労働をやるべきなのは一体誰か?
一応、『大人』であるらしい。
なるほど、ケアが必要な乳幼児は保護者に保護責任がある。
高齢者に関しては、実子に扶養責任がある。
保護責任も多分実子にあるのかな。

しかし、乳幼児に関してはともかく、高齢者に関しては、現在においては、『介護で仕事をやめるのは詰みルートだから避けるべき』『自分が生きるためのルートは残しておくべき』という論調が強い。
で、あるならだ。

もしケアワークが、子供の人生をすり潰すような人権侵害的な奴隷労働であり、且つまた、大人であっても一度足を踏み入れたらいずれ詰むような過酷な無償労働であるならば、そんなことは、子供のみならず大人にだって誰にだって、押し付けてはダメなんじゃないのか?

近代、多くの社会では、高齢者を子供世代の家族が養うことが一般的であっただろう。
特に、儒教の影響の強い日本では。

夫婦間での役割分担がはっきりしていたために、実子ではなく実子の配偶者がケアを行うことが一般的であったという話も聞く。

現在、ちびまる子ちゃんの祖父、友蔵が、仮に独立した世帯になったとして生きていけるだろうか。
友蔵は月に8万円の年金を受給していたが、独立した生計を営むのは難しいのではないか。
また、磯野波平は現在54歳だと言うが、6年後あるいは11年後に退職し、フネと二人で独立した生計を立てていけるだろうか。
波平とフネはともかく、友蔵は難しい気がする。
年金は、最低限の衣食住を子供世代が支えた上で、自分が食べる分をやっと賄えるくらいにしか、そもそも想定されていないかったのではないか?
ヒロシが衣食住を支えていたからこそ、友蔵はまる子にローラースルーゴーゴーを買ってやろうなどと思えたのではないか?

しかし、そのシステムはここ数十年で儒教とともに崩れ去った。
それを補うように、介護保険制度なども開始され、それに加え『高齢者だけで独立した生計を営むには年金以外にも2000万円必要です』という問題提起もなされた。
これらは、老後のケアの責任を国と個人に移管する動きであっただろう。
しかしそれにも関わらず、老後のケアを完全に国と個人が負うことは出来ずに、ヤングケアラーのような形で問題が表面化してくるのである。

結局のところ、『ケアワークって一体誰の責任なのよ』というところが曖昧のままなのではないか。
ヤングケアラーの問題を突き詰めていくと、その本丸を突かなくてはいけなくなるだろう。
その答えは私も知りたい。

ここまで書いて、1970年の消費者物価指数を元に、再度友蔵の年金額を現代の貨幣価値に変換したところ、約24万円であった。
これが、配偶者と合わせての額なのか、友蔵一人の額なのかは分からないが、結構貰っているなぁ。
さくら家は貧乏という設定であるが、衣食住を子世代に頼って、その他に24万円の年金を受給できるのであれば、少なくとも友蔵はリッチに見える。
現代の現役世代が年金を一人でこれくらい貰うには、若い頃からずっと1000万プレイヤーであり続けないと難しいレベルだろう。
あるいは、友蔵は年齢的に徴兵されていた可能性があるから、退役軍人への年金なども含まれているのかも知れない。
持ち家ならなんとか配偶者と二人で生活していける額ですね。

 

先延ばし癖を乗り越えろ

家計診断的なネットニュースが好きである。
自分の家計にも役立つことがないか、他の人は貯蓄のためにどんな工夫をしているか、興味が尽きない。
大量の家計診断を見る中で、一つ気づいたことがある。
「これはダメだな」と思う家計は、通信費が高いのだ。
まず通信費を見て、高すぎると思った家計では、やはり意味不明な支出が多く、健全に回っていない。
診断役のFPもまずそこを指摘するのであるが、すんなり聞き入れればまだ良い方で、「仕事や学校の都合で高いプランが必要なのだ」とか、「月賦で通信会社からデバイス本体を買っているが故の高額なのだ」とか、酷いと「通信会社の決済サービスを使ってコンビニなどで食料品や日用品を買っていて、それが含まれているのだ」などと言い訳をする。

どんな都合かは知らないが、通信品質を維持しながら通信費を下げる方法はある。
ちょっと調べれば、いくらでも出てくる。

月賦で本体を購入するのは果たして得なのか。
通信料金と相乗りすることで多少安くなると聞くが、それよりも自分で一括で用意した方が安くはないか。
中古のものや、メーカーによる再整備品もある。
一括で買えないようなスペックの本体はそもそも不必要である可能性が高く、低スペックで安い本体は多く売られている。
必要なら、家計が改善してから高スペックなものを買えば良いのだ。

通信会社の決済サービスを利用して食料や日用品を買っているのであれば、それは食費や雑費として計上すべきである。

また、「昔のキャリアメールアドレスを利用しており、昔の知り合いから連絡があるかもしれないからプランを変えられない」というような話も聞く。

大丈夫!
何を期待しているか知らないけど、そんな昔の知り合いから連絡が来ることは無いよ!
あるとしたら、「金貸して」とか「投票して」とかそんな用事だよ!
むしろ積極的に変えたほうが良いって!
切り替えていこ!

つまるところ、通信費を最適化できるか否かという問題は、

・現状の収入に合わせて生活レベルを調整する能力
・身の丈に合わない不要な見栄にとらわれない能力
・固定費を常に見直す能力
・最新の情報を自ら収集し理解する能力
・過去にとらわれず未来の方を向く能力
・面倒くさがらずに、各種手続きを『今日』行う能力

という、家計を健全に回すための能力群が如実に現れる部分なのである。
このことから、通信費には、家計の健全性のバロメーターとしての側面があるように思う。
単に、高額な通信費を払うことが問題なのではなく、通信費が家計に対して適切な割合であるか、そこに気付きメスを入れることができるかが問題なのだ。

身の丈に合わない不要な見栄にとらわれない能力、について思うことがある。
前々から不思議なのであるが、経済的に困難を抱えていると自称する家庭ほど、見栄のための出費をする傾向がないか。
やたら大きなイカツイ車を買って、奥さんのパート代相当のお金がすべて車関連の支出に消えているだとか、僅かな給料やバイト代から、ブランド物のバッグや高級腕時計を買うだとかの話を見聞きする。
別にどこにお金を使うかは人それぞれであるから、そこにこだわりポイントがあるのだなぁと思うだけであるが、支出先のバランスがよくわからないなとは感じる。

『お金がないからこそミジメな思いをしたくない』という思いが見栄への出費をさせるのかもしれない。
一般に、お金がある人ほど時に質素であると言われるのは、他人に貧しいと誤解されようとへっちゃらだからなのかもしれない。
収入に見合わない見栄の出費をしてしまうのは、支出に『自分の軸』がないからではないか。
自分の能力と現状に自信が持てず、なんらかの『尊敬されるためのアイコン』や、『コミュニティに受け入れられるためのアイコン』が欲しいから、見栄にお金を出すのかもしれない。

面倒くさがらずに各種手続きを『今日』行う能力については、自分で書いていて実に耳が痛いことである。
私は、投資をしなくてはしなくてはと思いながら10年ほど経過し、やっとここ3年ほどで投資を開始した人間だ。
もっと早く始めていればと臍を噛む思いである。
別に、確固たる信念があって立ち止まっていたわけではなく、ただ怠惰によって引き伸ばしていただけなのだ。
『今日』手続きをする気力が無く、先延ばしをしていただけなのだ。
「どうせまたいくつも新しいアカウントとパスワードを作らなきゃいけないんでしょ」
と、考えるだけで面倒であったのだ。
誠に愚かなことである。

そして今も、先延ばし癖に行動を支配されている部分がある。
新しい資格を2つか3つ取ろうと思っているのに、つい面倒で先延ばしにしている。
また、子供たちのパスポートを作っておこう、おこうと思っているが、平日パスポートセンターに子供達を連れて行くのがとてつもなく面倒で、先延ばしにしている。
申請と受け取り、2度も行く必要があるかと思うとうんざりする。
どちらも、一度行動に移しさえしてしまえば、スルスルと進むことだと言うのに。

怠惰による立ちすくみには、以下の2つの方策が有効であると思う。

一つは、『宣言する』という方策だ。
上司に先に、今期はこれとこれの資格を取りますと宣言してしまうのだ。
今までとった資格はこの方法で成功した。
夫や子供に、『子供達のパスポート申請するから』と宣言してしまえば、少しは動き出せるかもしれない。

もう一つは、外的働きかけである。
ちょっとしたきっかけ、のことだ。

私が投資を始められたのは、勤め先に持株会的な仕組みがあったためそれがきっかけとなり一気に投資へのハードルが下がったからである。

再就職に関しても、しなくてはしなくてはとただ悶々としていたところにたまたまエージェントがメッセージをくれたから動き出せただけで、彼からの働きかけがなければ私は英語の業務経歴書を書けるとすら思わなかっただろうし、カバーレターの書き方をネットで調べることすらもしなかっただろう。

人生は案外、ちょっとしたきっかけの累積で進んでいるのかもしれない。

子供達がそれなりの年齢になったら、種銭のみを与えて、お年玉分くらいは自分で投資して稼いでもらおうかと思う。
リスクを取るかどうかは本人次第であるが、少なくとも最初の『はじめるのが面倒』という部分だけはクリアすることができるだろう。

スポーツをやりたいと言う娘

困った。
娘が、スポーツをやりたいと言うのである。

娘は体を動かすことが好きである。
小さい頃からずっとそうである。
水泳を習わせていたこともある。
そして、油断をするとすぐ「ミニバスケをやりたい」だの、「バドミントンを習いたい」だの、「剣道を習いたい」だの、「サーフィンを習いたい」だのと言うのである。

我々夫婦は、スポーツは嫌いである。
楽しむことが目的のレジャースポーツは嫌いではないが、そうではない日本の教育現場周辺におけるスポーツ界隈がとても閉鎖的であることを、前世紀の田舎出身であるところの我々夫婦は骨身に染みているのだ。
勝利至上主義、理不尽な上下関係、地域の顔役への忖度、不文律、旧来のジェンダー観、しごき、父母の会内部での確執。
反面の効果として、精神が鍛えられる、礼儀を知ることができる、諦めない粘り強さを得ることができる、などがあるのかもしれない。
それらは確かに素晴らしいのだろう。
そういったことを否定する気はないが、少なくとも私には無理だ。
こちとら、上記のような要素から全力で逃れる方向で生きているのである。

一度、水泳は習わせたことがある。
民間企業が営利目的で行なっている教室であれば、上記のような危険要素は無いと思い、習わせたのであるが、すぐに飽きてやめてしまった。
娘は習い事をすぐやめる。

最初は

「楽しい! 習いたい! 絶対やめない! お願い、習わせて!」

というのに、2ヶ月もすると行かなくなってしまう。
本人曰く、

「どんな習い事も、体験教室の時は楽しいことばかりやらせるのに、実際に入るとつまらないことをやらせる」

と言う。
当たり前だ、そんなこと、と思う。

唯一、絵画教室は何年間も楽しく続けたが、

「放課後一緒によく遊ぶ子が、習い事の都合でその曜日しか空いてないというから辞める」

と言って辞めてしまった。
なんでウチが、何年も続けている習い事を辞めなくてはならないのかと思うが、遊びたいというのは娘の都合であるので仕方ない。
かと思えば、

「その友達の都合が変わったからまた始めたい」

などと言う。
これは流石に

「そしてまたまた友達の都合で辞めたりするのか。
 そんな気まぐれに付き合わせて大人を振り回すんじゃない」

と一蹴した。

文化系の習い事であれば、前述の危険要素がないので、辞めたり、習わせたり、ある程度 Try & Error を繰り返してもいいかなと思う。
色々なものを試してみなくては、何が向いているのかわからないことも確かだからだ。

しかしスポーツはそうはいかない。
民間の営利目的の教室ならばよいが、地域の非営利の運営だと、前述の危険要素に加え、大会の送迎や、お茶係や、コーチへの付け届けなどが必要だと聞く。
私などには絶対に無理である。
その代わりに月謝が安いのであるが、たとえ20 倍払っても良いので親の出番を無くしてほしい。
あちら様とて、

「伝統に与しない親や協力を惜しむ親、個人主義の親などは、来ないでくれ、図々しい! 迷惑だ!」

という思いであろう。
オタクとスポ少、混ぜるなキケン、である。

そもそも娘は、日本の教育現場周辺におけるスポーツを理解していないのだ。
「楽しいことができる」と思っているのだ。
冗談ではない。
日本の教育現場周辺におけるスポーツにおいては、楽しさという要素は全体の1割未満なのではないか。
私は中学時代、まさにその「楽しそう」という理由で卓球部に入ろうとしたが、母の

「未経験者は受け入れていないのではないか」

というトンチンカンな反対に遭い、文化部に入ったという過去がある。
母の言うことは実際トンチンカンであったが、田舎の中学の運動部にうっかり入ってしまった陰の者たちが、その厳しさ理不尽さ、部内での陰湿なイジメなどより次々と文化部へ転落してくるのを目の当たりにし、心の中で母に感謝をしたものだ。
この時の母の言動は人生で最高のナイスプレーである。

さて、文化部であった私の目から見ると、かたわらの運動部の活動の9割は、先輩対応や、しごき、基礎体力作りに見えた。
1年生のうちはずっと球拾い、休日も長期休みも毎日練習、朝5時から走り込み、などの話をよく聞いた。
「苦しさに耐えて耐えて耐え抜いて、勝利の喜びを味わう」という過程を楽しめる人でないと、「楽しさ」は感じられないのではないか。
そして娘はそのタイプではない。

一応、娘がやりたいと言うことは、可能な限りできるようにサポートはしている。
インラインスケートやスケボー的な遊具は、必要に応じて買い与える。
そうすると公園で練習し、楽しんでいるようである。
親が教えてやれないことも、友達同士で教え合い、できるようになっている。

スキーがやりたいといえば、スキー旅行に連れて行き、現地の教室に放り込む。
しかし娘は、「自由にやりたい。教室はもう懲り懲り」などという。
娘は何事も、人に物を教わるのをいやがり、自己流でやりたがるのである。
ねぇ、それ、絶対にスポーツ教室に向いてないよね。

地域の非営利団体のスポーツ教室は上記のような理由で親である我々の拒否反応が強く、申し訳ないが無理である。
今の所、
「申し訳ないが本当に無理なので中学か高校の部活で入ってください」
と言っているが、実際に入られても困るなぁ、と思う。
娘は9割の辛さ理不尽さに耐えなくてはならないし、大会などで親の出番もやはりあるだろうし、退部転部などしては、内申点が下がるだろう。
民間営利団体の習い事であれば喜んで通わせるが、娘のやりたい科目に限って、無かったり、社会人が主たるターゲットであったりするのである。

頭の痛い問題である。

オタク文化に見る「しびれる」女性リーダー像

アニメや漫画で見られる、女性リーダーが好きだ。
クシャナ第四皇女(風の谷のナウシカ)、バラライカブラックラグーン)、エボシ御前(もののけ姫)、葛城ミサト新世紀エヴァンゲリオン 他)などが好きだ。
彼女らが、「(撃)てええぇぇい!」とか「焼き払え!」とか「薙ぎ払え!」などというところを見るのが好きだ。
手は、真っ直ぐ前に出して、それから横に払う感じで。伝わるだろうか。

しかし個人的には大大大好きではあるものの、ちょっと、時代遅れだよね、とも思う。
これらの女性リーダー像は、女性が社会参加するためには、名誉男性であらねばならなかった時代の像だよね、と。

今の若い女性たちを見ると、わざわざハラスメントとバックラッシュを我慢しながら濃灰色のスーツ・オブ・ザ・ラウンドの中に割り込んでいくよりも、同じ女性達とシスターフッドを構築しながらブルーオーシャンに漕ぎ出す方がうちららしいよね、みたいな感じに見える。
彼女達は、かわいい。
とてもおしゃれで、どこまでも『女』である。
『女』であるがしかしそれは、異性からのモテを意識したものではないように見える。
もはや結婚が女性達にとってのゴールではなくなったので、そこを狙わなくなったのかなと思う。
彼女たちが意識するのは、『女性モテ』なのかもしれない。
恋愛的な意味ではなく、お互いにお互いの可愛さを褒め称え合うような。
昨今の若者は、テーマパークにオソロの服で行くという。
それを聞いたとき私は、
「え! そんなの絶対いやだ!
 お出かけには自分で一番好きな服着たいよ!」
と思った。
しかし彼女達にとっては、オソロでテーマパークに行き、虫歯ポーズでツーショットを撮りまくるというのは、シスターフッドを構築する一つの手段なのかも知れない。

さて、話をオタクに戻そう。
先に挙げた女性リーダーのうち、葛木ミサトだけは、名誉男性の中にある女性の弱さ的なものを、過剰なまでに描かれている。
この作品において、TVシリーズではシンジ14歳のモラトリアムを、旧劇ではやる気の無い新人を押しつけられた女性中間管理職の苦しみを、とてもリアルに描いているのであるが、それに加えて、全編を通して、ミサトの加持リョウジへ寄りかかりたい気持ちがとても前面に出されていて、名誉男性としてはだいぶ違和感がある。
そういう意味ではもはやミサトは、名誉男性ではないのかな、と思っていた。
しかし、シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇では、子供と過ごす時間を犠牲にして、仕事に邁進する姿が見られた。
なんだ、おもいっきり名誉男性じゃん。
そこは新世紀の女性リーダーとして、どちらも実現して欲しかった。
親性とリーダー性を両立して欲しかった。
そういう意味では、ヴンダーは家からリモート操作して欲しかったなぁ。
なお、魂の座云々の話は今いいです。

人を変えることは出来ない

人がイライラするとき。
その原因は大抵、
『他者が自分の思う通りに動かないから』
である。

親戚に未婚を責められたとか、親に子無きことを責められたとか、電車の中で化粧をする人を見てしまったとか、電車の中で化粧をする人がパフを落として目の前に座っている人の喪服のスカートを汚すところを見てしまったとか、満員電車の中で化粧をする人のマスカラの口が手すりを汚すのを見てしまったとか、勤務時間が長くて給料も安くて都心に部屋を借りることも出来ないことから通勤時間が長く更に勤務先から女性だけ化粧が強制されているからやむを得ず電車内で化粧をしていたらネットで叩かれたとか、電車のドア横に寄りかかっている人がドアの開いたタイミングで一旦降車しないとか、連日の残業で疲れ切って電車のドア横に寄りかかって寝たふりをしていたらドアの開いたタイミングで一旦降りるように注意されたとか、子供が親の思う通りに動かないとか、コンビニで接客していたら態度の悪い客が来たとか、営業先で無視されたとか、部下の成績が悪いとか、車で煽られたとか、前の車が己の理想とする速度で走らないとか、夫が(妻が)家事をしないとか、全部全部全部、イライラは他者の行動に由来する。

でも。
根本的に、見知らぬ他人であれ、我が子や実親や配偶者であれ、『他者』の行動は最終的には他者自身が決めるのである。
自分に考えの基準があるように、他者には自分とは異なる考えと行動の基準があるのである。
たとえ我が子であれ、他者であるから自分の考えを持っているし、いずれ親の手を離れて自分の考えで生活を成してゆく。
もう私は、心配し過ぎるのをやめた。
犯罪に巻き込まれて死なれたりするのは困るが、そうでなければ最低限口に糊してくれればよい。
本人の希望があればいくらでも教育に出資するが、ルートは自分で決めて欲しい。
親の希望のルートに誘導し、有名大学に合格したらそれを親の手柄として喧伝するような行動はしないと誓う(誓う側からやってしまいそうで怖い)。
世の中には色々な人がいて、その数だけ『基準』があるのだと知って欲しいので、親以外の人からの教育を大事にしたい。

他者の行動から逃れるには、最終的には、その場から逃げるか諦めるか受け入れるしかないのである。
逃げるには、パワーが必要である。

親戚付き合いをやめるパワー。
電車に乗らなくて済む生活へと変えるパワー。
車に乗らなくても済む生活へと変えるパワー。
職を辞めるパワー。
夫(妻)と別れて生きて行くパワー。

人と関わらなくても済む生活へと変えるパワー。

でも、そうやって他者の行動から受けるイライラから逃れた先は、誰とも接することなく、誰からも助けられない、見捨てられた裸の王様の一人部屋である。
裸の王様は、自らの基準を他者に強いようとした。
王様は王様であるから、臣下は王様の基準を受け入れたけれども、王様の威光を受けない人間からしたら、王様の基準を受け入れる理由などない。

自分や子供の命を守るために、逃げるパワーは必要である。
だが、すべての他者から逃れた先では、生きることも難しい。

般若心経に、色即是空という言葉がある。
目に映る全ては移ろいゆく『現象』に過ぎない。
現象(色)はいずれ霧散して空へと消えゆく。
それに囚われ、自らの基準との違いをああでもないこうでもないと悩むことこそが苦しみの根源であり、執着なのである。
自分の中の基準は、緩やかである方が生きやすい。
執着が減れば笑顔でいられる時間が増え、家族に良い影響を与え、人も寄ってくるのではないか。
人が寄ってくるということは、運(機会)も金も寄ってくるということである。
執着に凝り固まれば苦しみが増え、眉の間に皺が入り、口角は下がり、人も運も金も逃げてゆく。

口角を上げよ。
眉の力を抜け。

子供には、世の中には色々な人がいて、その数だけ『基準』があるのだと知って欲しい。
だから、親以外の人との対話を大事にしたい。
親である私の基準が絶対的に正しいのか分からない。
多分、どこかしら間違えているだろう。
絶対的に正しい人は存在しないから。
子供には、私の基準の間違いを看破し、数多くの基準に触れ、己だけの柔軟な基準を作り上げていって欲しいと願う。

 

「お母さんこれ持っててー」をやめて欲しい

「お母さんこれ持っててー」をやめて欲しい

下の子のサングラスを失くした。
おそらくこれで4個目くらいである。
カニズムは明らかだ。
子供が、サングラスをして出かける。
出先で外して「お母さんこれ持っててー」と預けてくる。
私、どこに持てばいいのかわからない。
適当にどこかに仕舞う。
失くなる。

公園遊びやテーマパーク、旅行などにおける、子連れの荷物は膨大だ。
1つのリュックには収まらないことが多い。
小学生である上の子供には自分の荷物を自分で持たせることができるが、園児である下の子には難しく、最初から私が持ったり、途中から預かったりする。
また、上の子であっても、遊び回るタイミングでは荷物を私に預けてくることが多い。
そうすると、荷物の増減が起こる。
最初から『私の荷物はこれとこれ』と把握できていれば管理できるが、
「お母さんこれ持っててー」
「お母さんあれ出してー」
が絶え間なく発生し、お出かけの途中で荷物が増減する。
そうなるともうお手上げである。
水筒、リュック、体温調整の為の上着(全員分を持つとめちゃくちゃ嵩張る)、おもちゃ、途中で購入させられたくだらないガチャガチャ、そういったものが絶えず預けられ、また払い出される。
途中から増えた物には「ここに入れる」という住所が無い。
適当なところに放り込み、失くす。
今、何がどこにあるのか、誰が持っているのか、全部でいくつあるのか。
もはや全く把握しきれない。
「私はあなたたちの荷物持ちじゃない!!」
と叫びたくなるが、実際問題、荷物を持ったまま子供が遊び回るのは難しいので預かってしまうことになる。
もし私が荷物持ちなのであれば、荷物持ちだけに徹したい。
荷物の把握だけに集中すれば、なんとかなる気がする。
しかし、子連れのお出かけにおける保護者の主な仕事は、子供たちを安全に導くことである。
「これ持っててー」と言われた瞬間も、周りに注意を配っている。
預かった物になど一切注意を向けていられないのだ。
そうしてどこに持ったか忘れる。

考えてみれば、これはお出かけの時に限らないのだ。
家に居るときも同じである。
子供の物は膨大で、『何がどこにあるか』を完全に把握することは出来ないのだ。
子供は勝手に物を動かす。
私が物の住所を定めても、『自分はこうしたい』と勝手に変える。
そうして失くす。

私が特別、物を失くしやすいのだろうか?
人生を振り返っても、特にそういう記憶はない。
ただ、大人になってから、子供関連の書類は基本的には失くすなぁと思う。
一応、配布物は即、画像ファイル化してクラウド領域に上げるようにしているが、提出物は紙の状態で保管しておかなくてはならないので、失くす。
でも、子供の居る家庭で物が失くなるのは当たり前である。
だって常におもちゃが散らかっているし子供は物を勝手に動かす生き物だから。
さらに、紙の文書は検索も出来ない。
検索が出来ないから、どこにあるか分からない。
現実世界ではフォルダー階層なども作れない。
私は、いまだにペーパーメディアの使用を求めてくる方がどうかしている、くらいに思っている。
そういった、教育現場や行政現場におけるデジタル化の遅延によって余計な手間をかけさせられていることに対する怒りが、書類の扱いを軽んじさせるのかもしれない。

子供にはやはり、
「人はあなたの荷物持ちじゃないのだから、人に物を持ってもらう時は失くされても文句を言わない事。
 大事なものは自分で管理する事」
と言い続けるしかないか。