nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

現代寓話

スペインの西北端に、サンティアゴ・デ・コンポステーラという街がある。
星の野原の聖ヤコブという意味であるとか、聖ヤコブの墓という意味であるとか言われている。
9世紀に、12使徒の一人である聖ヤコブの遺骸が発見されたことから聖地となった。
富めるものも貧者も、身体の頑健なものもそうでないものも、救いと、時に癒しを求めて巡礼に向かい、その道程はやがて、多くの巡礼者を集める巡礼路となっていった。
始点はフランスを中心としたヨーロッパ各地にあるが、ル・ピュイなどが有名だ。

この巡礼路の、終点近くのある場所に、ブローマという小さな街がある。
オレンジ色の家屋に挟まれた細い道が入り組み、夜となるとその道に店々がテーブルを出し地元客がグラスを傾ける。
町外れの丘の上には白い修道院があり、その裏には修道院の管理する葡萄畑が広がっている。
その昔、この街にコンスエラという少女が住んでいた。
コンスエラは裕福な商家の生まれであった。
両親は信仰心篤く、地元の教会に多くの寄進をしていた。
そんな両親を見て育ったコンスエラもまた神と教会を深く愛し、幼少の頃には自分から足繁く教会に通うようになっていたという。

ある時、そんなコンスエラを困惑させるような出来事が発生した。
教会に、巡礼者のための宿泊所が出来たのである。

長い巡礼の旅は、危険の連続である。
貧しい巡礼者は、その日の宿や食べ物にもことかく有様であった。

「お金がないなら巡礼をしなければいいのにね」
というのは現代の富めるものの意見である。
困窮しているが故に救いを求めて巡礼をするというのが当時の庶民の考えだったのであろう。
やがて、彼ら巡礼者のための慈善的な宿泊施設が、巡礼路のあちこちにできていったのである。
11世紀から12世紀にかけてのことである。
また、巡礼者たちはその道行きにて、多くの通行税をとられる場合があった。
その徴税人ときたらほとんど追い剥ぎであり、不正な税を取り立てた挙句身ぐるみ剥いだりしていたという。
やがて、これらの無法から守るため、巡礼者にはスペイン国内の法的な通行許可が与えられるようになった(※)。

このような流れから巡礼者は増え続け、ついには巡礼路終点近くのブローマの教会に、大勢の巡礼者がやってくるようになったのである。
巡礼者たちは多くの場合、巡礼路の途中にある教会にも立ち寄る。
教会には信者たちが列をなした。

コンスエラが生きたのはそんな時代であったから、その有様は彼女を大いに困惑させることとなった。
コンスエラにしてみれば、普段から通っている教会が大勢の巡礼者で混み合い、今までのような信仰に関する習慣を阻まれるのは、心外である。

加えて彼女には、信仰心の強さに対する強い自負があった。
彼女の目には、目の前の巡礼者たちが、普段はブローマの教会になど通わない、信仰心の薄い『にわか』に映ったのである。
おまけに、裕福な家庭に育った彼女の目には、貧者たちの振る舞いは粗野とも映った。
何故、そんなものたちに譲らなくてはならないのか。

コンスエラは、教会へ続く道にアーチを築き、こう彫った。

『真に信仰篤き者のみ通るべし』

もちろん彼女は封建社会を生きた女性、しかも当時、少女であった。
商家の娘とはいえ自分で稼いでなどいなかったから、親の資力で建てたのである。

しかし巡礼の貧者達は、ラテン語で書かれたその文字が読めない。
相も変わらず教会に押しかける巡礼者たちに、コンスエラは辟易し、憤り、神に祈った。

「真に信仰篤き者のみ通るべし。
 主よ、信仰うすきものを打ち砕きたまえ」

そしてどうなったのか。
13世紀に書かれたブローマの年代記にはこうある。

『その時、にわかに天曇り、慄く民衆達の頭上に、光りながら高速で回転するバールのようなものが顕れた。』

そしてバールのようなものから稲妻が迸り、コンスエラの建てたアーチを打ち砕いた。
アーチは爆発四散した。
 
さて、貧しき巡礼者の中に、コンスエラと同い年の少女がいた。
名前は伝えられていない。
仮にマリーアとしておこう。
彼女は麦角菌に侵されて脚の先を失っていた。
治癒の奇跡を求め、生まれて初めての巡礼の旅に出ていたのであった。
ちなみに当時実際に、麦角菌に侵された者が巡礼により治癒する場合があったというが、それは、元の生活圏を長く離れることで、麦角菌に汚染されていない食物を摂取するようになるからであると言われている。

コンスエラは、巡礼者の中に自分と同じ年頃の少女のいるを見た。
自分は彼女と比べ、より強く神を愛しているといえるのか。
何をもってそれを比較するのか。
『真に信仰篤き者のみ通るべし』という標を、もしもマリーアが読めてしまっていたとしたら彼女は何を思ったか。

コンスエラは賢い少女であった。
コンスエラはここに、
『世に貧者のある』を知り、また、
『信仰心や何かを愛する心の強さを他者と比べることの愚かしさ』を知り、また、
『教会というものが貧富や住処や信仰の歳月を問わず広く公に開かれたものであること』を知るに至るのである。
彼女は気づいたのだ。
普段、本当に神を愛し、篤き信仰心を持っているにもかかわらず、貧しさや忙しさなど、様々な事情から巡礼に行けぬ者達がいることを。
目の前の者達は、慈善宿泊所を頼りに、若しくは通行許可証の発行政策を契機に巡礼に来ている『庶民』であるが、彼らは、彼女と社会的階層は異なるものの、彼女と等しく神を愛する人間であるということを。

この時、彼女の目からハモン・セラーノのようなものが落ちた。
以降その場所に、生ハムの如き色をした温泉が湧くようになったという言い伝えがある。
含鉄泉であるが故の色である。
その場所は私有地であったが、「温泉は大地より湧きいでたるものであるが故に、万人に享受されるべし」という篤志家の地権者の考えから、のちに巡礼者を含め広く公に提供されるようになった。
現代でも地元の人はこれを Las lágrimas de consuela(コンスエラの涙)と呼び、貧血や疼痛、癇癪に効く薬湯として親しんでいる。

コンスエラはその後、貧しき巡礼者を保護し支えることに生涯を捧げた。
彼女は人々の尊崇を集め、また、アーチへの落雷と温泉の湧出が奇跡として認定され、15世紀に列聖された。
コンスエラのアトリビュート(聖持物)は、石を掘るノミ、若しくは光りながら高速で回転するバールのようなものである。
ノミは彼女の築いたアーチに因んでいると言われる。

ブローマの教会には、彼女がアーチを作る際に用いたと言われるノミが、聖遺物として保管されている。
尚現在ではこの聖遺物は宝石で飾られた銀のツールボックスに入れられているが、この銀は16世紀に南米のポトシ銀山で採掘されたものだと伝えられている。

この聖遺物に関する、一つの逸話が残されている。
かつて、ブローマの街が他の宗教を信奉する国に占領された。
住民たちは、なんとしても聖遺物だけは取り戻したい。
そこで、勇気ある二人の若者がそれを持ち出し、他の教会に避難させようとした。
しかし、街から持ち出すものは全て、厳しく検閲されてしまう。
二人は聖遺物を荷車に入れ、更に、当該宗教が穢れた獣として忌み嫌う、とある動物の肉を大量に置き、覆った。
検閲官に荷車の中身を問われ、二人は答えた。
ハモン・セラーノです、と。
検閲官は戦慄し、さっさと行けと命じる。
かくして荷車の中身が検閲されることはなかったのである。

その後、ブローマの街は解放され、聖遺物も戻った。
現在では、11月22日のコンスエラの日に街をあげた盛大な祭りが執り行われ、たくさんの巡礼者たちが、華やかな御輿に聖遺物を載せ、列を成して街を練り歩いている。
コンスエラの涙に例えられた温泉は、彼ら、大勢の名も無き『信仰篤き者』で賑わっているという。


え?
コンスエラなんていう聖人、ググっても出てこないって?
ブローマの街も?
当たり前だ。
冒頭以外全部、たった今作った私の法螺だからだ。

完全なるフィクションである。
ごめんなさい!

サヨナラ!

 

 ※:サンティアゴ・デ・コンポステーラと巡礼の道

 

 

目からハム

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裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち

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