nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

スマホはもう、デジタルガラガラと呼べば良い

先日、所用があって上野駅を利用した。
上野駅の構内には、たくさんのレストランが入っている。
その中のひとつに入り昼食を食べていたところ、不意に、近くのテーブルから音楽が流れてきた。
見ると、先ほど入店してきたらしき、1歳になるかならないかの双子の男の子を連れた夫婦が、双子たちにスマホを渡して、動画か何かを観せている様子であった。
音はそれほど大きいとは言えなかったが、やはり店内であるため、私を含め周りの人々が「なんだ?」という様子でチラホラとそちらを見ていた。
夫婦も周りの目が気になるようで、音量を小さくしようとしたり、無音にしようとしたりしていたが、そうするとたちまち双子たちがグズって泣き出し、元々のスマホの音量よりも泣き声の方がずっとうるさくなり、夫婦は申し訳なさそうに、焦ったような感じで急いで荷物をまとめ、双子たちを連れて退店していった。
注文した料理はテーブルにあったが、滞店時間からみても、まだ殆ど手をつけられていなかったのではないだろうか。

私は、この光景をみて、あの夫婦は一体どうしたら良かったのだろうかと考えさせられた。
1歳児を連れて出先で食事するというのは、物凄く、物凄く、ものすごく!!!大変だ
私は今の所、子供達が1歳の時にそういう必要が生じた事はないが、3歳の時分の娘を連れてレストランに行った事はあるし、機動力の低い0歳の頃の息子と、夫も含めて4人で外食をした事もある。
それらの際は、空いてる時間帯を狙い、子供の存在を許容して貰いやすいファミリーレストランで、子供がグズったらすぐに連れ出す、それが可能なだけの人員を伴っていく等、とにかく気を付けて行ったが、それでも余りに大変過ぎ、とてもゆっくり食事を楽しむ、という状態ではなかった。
何故なら、子供に食べさせている間は、大人が食べる暇はほぼ無いと言って良いし、子供は大人が食べ終わるまで待てないからだ。
ましてや、1歳の男児二人を夫婦だけで連れて、レストランで食事をするというミッションは、あまりに困難である。

しかし、生きていればそういう必要が生じる事もあるだろう。
あの一家は、朝からずっと公共交通機関で移動していて、午後もまた移動が必要で、どうしても上野駅で食事を摂る必要があったのかもしれない。
子供連れでレストランに入るのは迷惑だろうかと考えたところで、あの近辺で安全に食事をする場所があるかと言われると、上野は不案内でもない私でも、思いつかない。
ましてや遠方から来た人であれば、レストランに入るくらいしか思い浮かばなくても無理は無い。

上野公園まで行きパンでも齧る?
寒空の下?

どちらかがレストランの外で子供を見ている間に、もう片方が交代で食事を摂る?
それも無理だ。
あの夫婦はベビーカーを持ってきていない様子だった。
抱っこ紐を使用しても、一人で二人を抱っこする事は出来ない
ちなみに、交通機関の都合により、ベビーカーを持っていくと却って大変になるから持っていかない、という選択は普通に取られ得る。
なにより、それでは子供たち自体が食事を摂れない。

そう考えると、子供たちにスマホで動画を観せながら食事を摂る、という以外、あの夫婦に選択肢はなかったのではないかと思う。
育児では、ベストな方法がとれず、その他の、何かしら問題のある選択肢から、いくらかマシな(ベターな)方法を選択せざるを得ない、という場面が多々有る。
周囲からみて悪手であると思われても、他の方法はもっと悪手かも知れないのだ。
あの夫婦が最初に取った行動は実はベターなものであったのだろうが、私も含めた周囲の人間がチラチラ見てしまった結果、それをやめ、結果として、もっと悪い事態に陥ってしまった。
あの夫婦は、周りの視線から、音を出してしまっている事に対する罪悪感以上の、『子供にスマホで動画を観せているバカ親』という意図を読み取ってしまったのではないか。

そもそも何故、スマホがこんなにも悪者として扱われているのだろうか。
大人は、特に子供の親とその周囲に居る人間は、新しいメディアやそれを提供するデバイスに対する警戒心が強い
面倒&うろ憶えなのでソースは出さないが、

新聞なんて子供に読ませるな

小説なんて害悪だ

ラジオに子守をさせないで!

子供にテレビを観せすぎるな

漫画、アニメが子供を犯罪に走らせる

ゲーム脳の恐怖

スマホに子守をさせないで!

みたいな感じで、明治維新からこっち、ずーーーーっと同じ事を言っているのではないか。
それこそ、楔型文字で粘土板に、「最近の若者はけしからん」と書かれていたように、おそらくもっと昔から。

時に私は、中学生時代、ゲームが大大大好きであった。
特に、剣と魔法の世界を旅するRPGが好きで好きでたまらなかった。
今はもう、ゲームをするだけの集中力も無いし、憧れの中世ヨーロッパに触れるなら、実際に現地に行くか、図書館で歴史の本を借りて読んだ方が、リアルで面白い。
しかしハマっていた当時は、本当に寝食を忘れる程で、その世界に対する憧れから、読書や、絵画や、更にはCGデザイナーやシステム屋という職業に対する憧れや興味など、あらゆる思考に影響が及んだ。
あの時期のあの体験がなければ、当時の体験を同世代の人間と共有する喜びも無く、現在の各方面への興味も無く、人生に於ける『Fun』は、かなり減少していた可能性が有る。
何なら就職も出来ていなかったかも知れない。

尚、私の父はゴリゴリのシステム屋であり、デジタルなモノに対する許容度はかなり高かった。
私が子供であった昭和の時代、まだ珍しかったパーソナルコンピューターで、タイピング練習用ソフトを使ったタイピングを教えて貰ったり、一太郎(懐かしい!)で文字を打ったり、花子(超懐かしい!)で CG(3Dじゃないよ)を作って年賀状にプリントしたり、Mac で上海などのゲームをさせて貰ったりした。
余談であるが、昭和の当時使用していたタイピング練習用ソフト(名称は忘れた)は、タイピングのタイムが遅いと

「遅いですね。
 足で打っているのですか?」

等と聞いてくる超失礼なヤツだった。
もちろん手で打っていた。

また、長じて私がゲーム好きになってからは、父は東京ゲームショウに連れて行ってくれたりもした。

父がラジコンを買ってくれれば、幼い私と姉は、どうしたらより電波が受信し易く、遠くまで走るようになるか試行錯誤したし、オルゴール盤を読み取りながら音楽を鳴らして走る汽車のおもちゃを与えられれば、私も姉も、付属のオルゴール盤を使用せずにオリジナルの音楽を鳴らすという挑戦に夢中になった。

上記の事柄との因果関係は分からないが、私も姉もシステム屋となった。
ちなみに、私は通勤は死ぬほど嫌いであるが、仕事は大大大好きだ。
システムを作ることは、大体において脳にとって甘くて美味しい体験だ。

だから、というわけでは無いが、新しいメディアやデジタルなものが一概に悪いとは、言えないのではないかと思う。

とはいえ、歴代の人類が警戒してきたメディア及びデバイスには、それなりに警戒するに足る理由はあると思う。
それは、時間を忘れてハマりやすいという点と、完全に受動的な体験となってしまいやすいという点だ。
しかし、寝食を忘れてハマるという体験は、悪い事ばかりではないと思うし、他に能動的なアウトプットをする場所があれば、受動的にインプットばかりする体験があっても良いだろう。
何にせよ、短時間の使用で人生に悪い影響が出るようなものでは無いと思う。
駅でちょっと見掛けただけの親が、子供にスマホを観せていたからと言って、彼らが家でもずっとそうであるとは限らない
すぐさま『バカ親』という目で見るのは、短慮なのかも知れないと、改めて自らを戒める体験であった。