子供達が、親である我々や姉弟であるお互いを指差して、ふざけて笑いながら何かいうという行動をしてしまっているので、それはいけないことだと説明し、副教材として『笑ゥせぇるすまん(アニメ版)』を観せた。
子供達は泣いた。
上の子に至っては夢にあの人が出てきたと、翌日文句を言ってくる始末。
ちょっとやり過ぎた。
さて、久しぶりにこの作品を観て思ったことは、バブルだったから生まれた作品であったなぁ、という事である。
私はこの作品のマニアではないし、小学生当時アニメを観ていたという極めて浅い接し方しかしていない為、マニアの方から観たら考察の足りない稚拙な文章であろうがご容赦いただきたい。
なるほど、バブルの時期、日本人は薄っぺらで画一的な価値観に向かって生きていたのかもしれない。
あやふやな足元を無理して踏ん張って、他者から与えられるイメージを必死で演じていたのである。
彼は、その『ココロのスキマ』を埋めにくる。
結果的に彼の顧客は一見して不幸になることが多いが、本人にとっては、画一的な価値観および幸福像からの解放であり、新たな自分だけの価値観および幸福像の発見である。
それは不幸ではない。
このアニメが終了して何年か経ち、バブルが崩壊して多くの人が以前より金銭的に厳しくなったが、同時に、誰にも理解されない自分だけの幸福を見出し、社会全体を巻き込むような大きなブームは消失し、消費は細分化し、小さな『マイブーム』の集合となり、決まった型としての成功像を失っていった。
それは、彼の顧客達のストーリーと重なる。
当時の視聴者は、バブルという虚像の向こうに崩壊の予兆を見、喪黒氏の顧客達に自らの未来を重ね、夢中になっていたのかもしれない。