夫が観ていたテレビ番組の中で、街ゆく若い女性がインタビューを受けていた。
その中で、『高齢社会』という言葉が使われていた。
それに対し、テレビ局のつけた字幕は『高齢化社会』であった。
何故だろうか。
高齢化社会だの高齢社会だのという言葉は、高齢化率により
高齢化社会→高齢社会→超高齢社会
というように進んでいく。
人や機関により若干ぶれる定義が存在するのかもしれないが、概ね、日本は高齢化社会をとうに通過し、高齢社会もしくは超高齢社会にあると言えるだろう。
少なくとも、高齢社会という言葉に敢えて高齢化社会というテロップをあてる必要性は、思い浮かばない。
テレビの中の人(ここでは、字幕をつけた人を含めた、番組制作者全体を指すものとする)が、高齢社会という言葉を知らないということは無いと思うのであるが、もしも知らないのだとしたら、何故、目の前の箱や板で調べなかったのであろうか。
以下に、ものすごく穿った、性格の悪い見方をしてみる。
テレビの中の人は、高齢社会という言葉を知らず、インタビューを受けた女性が高齢化社会と言おうとして間違って高齢社会と言ったと思ったのではないだろうか。
テレビの中の人のプロフィールは知らないが、そこに『若い女性=自分より物を知らない』という先入観が無かったか。
その先入観により、「字幕で訂正しといてやんよ」という驕りが生まれた可能性は無いか。
とはいえ、この妄想の根幹には、私の中の、『テレビの中の人=奢っており、ロケ中に一般人の通行を妨げたり飲食店での特別扱いを要求したりする、そして全ての人間が芸能人と会うことやテレビに映ることを幸運若しくは光栄に感じると思っている、そしてインタビューを受ける一般人の多くをバカであると仮定した企画立案をしている、そして何より視聴者をバカだと思って番組を作っている』という若干の先入観が存在する事は否めない。
私自身も、先入観に翻弄され、見も知らぬ人の意図を勝手に想像してしまう人間に過ぎないのか。
皆様ご覧ください。
『化』という文字一つで、ここまで妄想を膨らませ勝手に悶々としているのである。
夫曰く、
「テレビを観るのに絶望的なまでに向いていない」
のである。