子供がキライだから子供を欲しくないという話を目にすることがある。
この時私が意識して情報を得ようとしているのが、文中で、自己との関係性としての『子ども』と、ヒトの幼体としての『子ども』の区別が明確になっているか、という事である。
前者は、ヒトが成長中のどの過程にあるかに関係なく、自分の子を指す言葉である。
後者は、自己との関係性に関係なく、ヒトの幼体を指す言葉である。
ここでは以降、区別の為、前者を『子孫』、後者を『ヒトの幼体』と呼称することとする。
私は以前、ヒトの幼体が嫌いであった。
自分が幼体であったころから、嫌いであった。
リクツが通らず言動の予想が付かない点が恐ろしかったからだ。
そして、なまじ自分が幼体であった頃の記憶が鮮明である為、ヒトの幼体が内側から見ると純真無垢などではないと感じていたからである。
大人の目に映る純粋無垢さと、実際との乖離に違和感を持ち、それを承知で商業的に利用しようとするメディアに対して幼体ながらに反吐が出た。
成長してなお、ヒトの幼体を可愛いと思ったことなど一度もなかった。
でも、大人になり子孫を持った。
夫と自分の子孫が、大人になってから一体どのような考えをもち、選択をし、人生を送るのかに興味があったからである。
いわば俺屍やダビスタ的な楽しみ方である。
ダビスタやったことないけど。
まあ、現実的なことを言うと、老後に頼る気はなくとも、入院時の保証人の印くらいは押して欲しいなという下心もあった。
ヒトの幼体は相変わらず嫌いであり、幼体を育てることに全く不安がないでもなかったが、幼体でいる期間など短いし、その短い期間をなんとか乗り切ればあとは成体になるのだからどうにかして乗り切ってやろうと考えていた。
だが同時に、もしもヒトの幼体が他の哺乳類(ネコとか)のように毛むくじゃらであったなら、可愛いから喜んで産みたくなるのにな、などとも思っていた。
いわば私は、『大人』が欲しかったのである。
だが実際に産んでみると、ヒトの幼体はめちゃくちゃ可愛かった。
毛むくじゃらでこそないものの、ネコの幼体よりも遥かにかわいく(主観です)、言葉に尽くせないほど愛おしかった。
さりげない可愛い言動を一生忘れぬように日記に書き付け、どう見ても落書きのような手紙を山ほど保管する日々である。
そしてそれを機に『ヒトの幼体かわいい回路』が開き、他者の産んだヒトの幼体すらも可愛くて仕方ないと思うようになった。
念のために付記すると、私は人のライフスタイルや考えに口出しする気は全くない。
ただ、『子ども』という言葉には2つの意味があり、考えたり議論したりする上でごちゃごちゃになりやすい。
ヒトはずっと幼体でいるわけではない。
したがって、ヒトの幼体が嫌いであるということと、子孫をもたないということは、大きな関係性はあるもののイコールでは結びつかないのではないか。
片方について話したり考えたりしているうちに、いつの間にか別の意味の方にすり替わっている、そういう事に気をつけなくてはならない。
用語を明確に区別する必要があるよなぁと思う次第である。