nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

母親の行動が嫌いである

母親の行動が嫌いである。
心底嫌いである。

母親の弾くピアノの音が嫌いである。
里帰り出産中、新生児の眠る隣でジャンジャカジャンジャカ毎日ピアノを弾いていた母親の行動が嫌いである。

出産直後で毎日細切れの4時間睡眠を続ける私の隣りでドンシャラドンシャラ毎日ピアノを弾いていた母親の行動が嫌いである。

ピアノが好きなのは母親自身であるのに、何故か、興味も才能も無い私にピアノを習う事を強い、私がピアノに対して積極的になれない事に対して勝手に腹を立てていた母親の行動の意味が分からない。

孫である新生児に対して
「この子は音楽の才能がある。音楽の道に進むと思うわ」
などと勝手な事を言う母親の言動が嫌いである。
音楽が好きなのは母である。
母が今から進めばいい。
なお、肝心の子供達は夫方の血の発現によりなかなか個性的な音感を持っているので、今のところ音楽の道に進む心配は無い。

自身の子育てが終わり老後を迎えた今に至りなお、ピアノを習わない母親の行動が嫌いである。
ピアノが好きなのは母であるのだから今からでも母はピアノを習うべきである。
母もピアノ教師に手を叩かれてみると良い。
蛇のようにしつこく叱責され泣かされてみると良い。
母のピアノは指を叩きつけるタイプの自己流で、聞くに耐えないのだ。

「孫(私の子)に習わせるつもりならこのピアノあげようか?」などと聞いてきた母の言動が嫌いである。
実家のピアノ?
もし私がそれの所有権を得たら、斧で全力で打ち壊したいと思っているよ!

オムツの替え方を聞いても、赤子の抱き方を聞いても、「知らない、分からない、やったことない、自信ない」としか言わない母親の言動が嫌いである。
私を育てたのは一体誰なのだろうか。

どんなシチュエーションにあっても、意地でも孫のオムツを替えないという強い意志を貫いた母親の行動が嫌いである。
私が、慌ただしい新生児育児の中で冷めた夕食にやっとありついたというような状況であっても、「おかあさーん(後述)、孫(私の子)が泣いているよ」とわざわざ呼びにきて、私がオムツを替えて手を洗って戻ってくると母が赤子を抱いている。
泣いている最中はオムツを確認しようとも、触ろうとさえもしなかったのに!

赤子をお風呂に入れるときも、やれそんなやり方では耳に水が入るだの横からピーチクパーチク口ばかり出し、手は一切出さなかった母の行動が嫌いだ。
「自信ない」からだそうである。

へー、自信ないなら何一つやらなくていいの。
素晴らしい子育てですね。

娘が2歳くらいの頃、毎晩4〜6時間にも及ぶ寝かしつけに私が苦労している事を知りながら、夜中に娘にパソコンで動画を見せるなど更に寝なくなるようなことをしてきた母の行動が嫌いだ。
たまには代わりに寝かしつけようという気も一切無いのだ。
「知らない、分からない、やったことない、自信ない」からだ。

食事の前に孫にお菓子を見せ、ねだられるままそれを与える母の行動が嫌いである。
やめてくれと言うと、私から子供達に対して禁止するように言う。
いやいや、子供達に菓子を見せ、あげているのは母であろう。
「食事前だからダメだよ」と何故言えない。
何故かというと、孫から恨まれる役は私に押し付けたいからだ。
私は子供達を無駄に叱り、子供達は無駄に泣くことになる。
食事前にお菓子を見せない、ただそれだけのことが何故できないのだ。
何故かというと、母は「孫にお菓子を見せて喜ばせたい」という欲求のままに行動しており、それに付随する『お菓子を見せたら当然食べたがる』『食事前に与えたら食事を食べなくなる』『ダメだと言ったら子供達が泣きとても大変な騒ぎになる』という一連の未来予測ができないからなのではないか。
何度説明しても何度でも同じことを繰り返すのは何故だ。
それが分からないので苦しいのだ。

私の子供達がコップを手にするたびに「こぼすなよ〜」という母が嫌いだ。
「それは呪いの言葉だ」と、理由を説明した上でやめてくれるようお願いすると、その場では分かったと言うのに、毎回毎回繰り返すのは一体何故なのだ。

孫と遊んだり外出したりする事を嫌がる母の行動が嫌いだ。
一年にたった数日のことがどうして耐えられないのか。

コンセントを奥まで挿さない母の行動が心配でたまらない。
何度、半挿しの危険性を説明しても、その場で分かったと言うだけで、繰り返すのは何故なのだ。

布団乾燥機(熱風で袋を膨らませるタイプ)に袋を装着せず本体を(!)布団に入れて使用するのをやめてくれ。
火事になってしまう。

父から私の子供に何かおもちゃなどを貰った時、お礼のテレビ電話をしていて、「なに? あれもウチが贈った物なの?」と眉を顰める倹約家の母親の言動が嫌いである。

私が「子供にこんな図鑑を買ったんだ」と話したら、わざわざ値段を聞いて、「¥3,000もするの? たか〜い!」と驚いて見せる母親の言動が大嫌いである。

「お金が無いから化粧品は100均のものしか買えないわ。
 誰々さんの奥さんは何十万円もするカツラを買ったんですって」
と言って美容にお金掛けられないアピールをする母親の言動が嫌いである。
誰々さんは母と違ってしょっちゅう海外旅行に行ってるわけではない。
単にお金の用途が違うだけ。
美容費にお金を掛ける事に母が罪悪感を持っているのは、母自身の問題。
決して厳しい家計ではない筈だ。
家計の問題にすり替えるのは父に失礼である。

食洗機があるのに食器を手洗いする母親の行動が理解できない。
「手間を掛ける事が美徳」だと思っているのだ。
時間も水も余計に掛かるのに、謎の自己満足の為にそれらを無駄にしているのだ。

全自動洗濯機の洗濯の過程でわざわざ洗濯機を止めて洗濯物を取り出したりしぼってみたり、謎の工程を入れる母の行動が意味不明である。
理由を聞いても毎回違う答えが返ってくる。
母はどんなに天候の良い季節であっても、夜遅くに洗濯機を回す。
子供達がその謎の工程に興味を持って夜更かしし、更には水の入った洗濯機を覗き込んで危ないので、「明日私が回すからもう任せてくれ」と申し出ても、その申し出が受け入れられる事はない。
「手間を掛ける事が美徳」だと思っているのだ。
謎の自己満足の為に(略
嫌いだ。

冷凍庫で三年半保存した、タイヤみたいに硬くなった肉を、久しぶりに会う私や子供達に振舞う母親の行動が嫌いだ。
冷凍庫に入れたらその瞬間に時が止まると思っているのだ。

父や私や子供達の食べるものについて「美味しさなんてどうでもいい!」と言い放つ母の言動が嫌いだ。
久しぶりに会う相手に美味しいものを食べて欲しいなどという感覚は無いのだ。
なお、「お願いだからこれで新鮮な食材を買ってください」とお金を渡しても特に変化は無かった。
「新鮮な食材を買う」という行動パターンが存在しないのだ。

父の減塩のためと言って、ダシ入り味噌をほんの少し入れた味のない味噌汁を飲ませようとしてくる母の言動が嫌いだ。
私が「味噌を減らすならその分ダシを多く入れるといいよ」と言っても決して受け入れない。
あまりに美味しくないので味噌汁は要らないと毎回言うのに、その度に「え〜!?いらないの〜!?」と驚くのは何故だ。
何故毎回、初めて聞いたように驚くのは何故だ。
なお母は味噌汁を食べない。

吉野家の牛丼の発泡スチロールの古びて汚れの染み付いた容器にサラダを盛って出す母の行動が嫌いだ。
「子供達が変な習慣を覚えるから、頼むからやめてくれ」「サラダの容器が必要ならいくらでも買うからやめてくれ」とお願いしても、その場では分かったと言うのに毎回同じことをしてくるのは何故だ。

おはぎや惣菜の入っていたぺらぺらの素材のプラスチック容器におかずを入れて出してくる母の行動が嫌いだ。脆い素材であるから何度も使用されるうちに破損し、破片がおかずに入っていたこともある。
「子供達が変な習慣を(略
その場では分かったと(略
毎回同じことを(略
嫌いだ。

割引された食材ばかりを溜め込む母親の行動が嫌いだ。
値引きシールのついた肉や魚は、冷凍庫で何年も眠って子や孫の帰省のタイミングで出される。
加工食品は賞味期限が切れたまま何週間も冷蔵庫に鎮座する。
チャレンジングな味付けの菓子類やアヴァンギャルドな企画食品は、誰も食べないまま取って置かれ、最後は孫が被害に遭う。
ねぇ、こういうアヴァンギャルド系の食品は、美味しくないから売れなくて値引きされるのだってそろそろ気づいて!

明らかに開封済みで中身にカビの生えたペットボトル入りの水を私の子供達に飲ませようとした母の行動が嫌いだ。
いつ誰が買ってきて誰の飲みかけであるか聞いたら
「しらなーい」
と答えた母の言動が嫌いだ。
いつ誰が買ってきたか分からないものを何故人に与えようとするのだ。

ペットボトル登場から普及にかけての時代には
「直接瓶に口をつけて飲むなんて品がない。
 そういうスタイルを売ろうとする飲料メーカーが許せない」
と言っていたのに、飲料メーカーの川柳公募で入選してラベルに自作品が印刷された瞬間に、段ボールでペットボトル飲料を購入し、過去の自分の発言などなかったかのように振る舞う母親の言動が嫌いだ。

二言目には
「昔はみんな貧乏だった。私は日本がとても貧乏な時代に生まれた」
という母の言動が嫌いだ。
日本が貧しかった時代に産まれた事は、母の最大のexcuseである。
このワイルドカードで自分の全ての振る舞いが許されると思っているのだ。
母の頭の中には、日本が一番豊かな時代に子育て期を過ごせた自覚も、人口オーナスの影響を逃れて『豊かな中流』を維持したまま死に逃げ出来る最後の世代である自覚も無いのだ。

私のことを母が「おかあさん」と呼ぶ事が心底耐え難い。
生物学的におかしい。
逆転している。
強い言葉を使ってしまうが、おぞましい。
母曰く、「孫たちの立場に立ってそう呼んでいる」らしいが、何故孫たちの立場に立つ?

母は35年程前の冬、灯油屋(中年男性)が母に「おかあさーん!」と呼びかけたとき、「失礼ね、私はあの人のおかあさんじゃないのに!」と憤慨していたではないか。
その不快感を知っていながらなぜ私に同じ事をするのだ。

母が私を「おかあさん」と呼ぶタイミングを分析してみると、明らかに、「このままでは自分が孫の世話にタッチしてしまう」と母が感じる瞬間に発生していると思われる。
例えば、子供達(孫)が何か要求を上げたときや、オムツが濡れているかもしれないと予想されるようなときなどだ。
つまり「おかあさん」という私への呼び掛けは、
「おかあさーん!(であるところのお前がさっさと孫の相手をしろよ)」
という一連の文章の省略であるのだ。

しかし私は文を文の通りに解釈するので、生物学上の母から「おかあさん」と呼ばれるたびに、自分の腹の中で老いた母が丸まり羊水に浮かんでいる様子を想像し、吐き気を催すようなおぞましさが全身を貫くのである。

嫌だからやめてと私は何度も言い、その度に母は「分かった」と言い、しかしまた同じ事をするのだ。
何故だ。
理解出来ない。
つらい。
つらい。
つらい。

だが。
駅の構内でわざとぶつかってくる人や、イライラを弱者にぶつけてくる痴漢、電車の中で化粧をする人、煽り運転をする人、子供を連れた女であると見るとすぐに見下してくる人よりは、嫌いではない。
少なくとも母は自分では私の味方であるつもりだからだ。
ただ、そういう人たちと比べたら嫌いではないかな、という認識が、肉親に対するものとして妥当であるのか分からない。

あるいは。
上に挙げたようなストレスの多くは、私が自認するところの

・「こうあるべき」という感覚の強さ
・過去の記憶を忘れる能力が低い(しつこく覚えすぎている)
・人が考えを変えることに対する許容性の低さ(ダブルスタンダードが許せない)
・不安感が強い

という特性に起因しているのかも知れない。

とにかく、ストレスを与えられる人間関係からは逃れたい。
が、子供達は帰省したがるのだ。
今年も私は子供を連れて帰省し、数日でぼろぼろになって自宅に帰るのだろう。
つらい。

 

 

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