nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

何度でも繰り返す。スマホは文房具である。

昔、父と電車にのるためにホームの列に並んでいた時の話。
前に並ぶ若い女性のいじる、スマホの画面が図らずも目に入ってしまった。
どうやら、医学系の試験対策アプリのようだった。
父と電車に乗ったあと、前の座席の人々が軒並みスマホをいじっているのを見て、父は、

スマホで一体何をそんなにやっているのかねぇ」

といった。
太平洋戦争開戦の年に生まれた父は、スマホを持っていない。
その語調には、明らかに、非難の色が含まれていた。

何をやっているのかって?
そんなの、人それぞれだろう。
ある人は医学の勉強をし、
ある人はエントリーシートの文面を練り、
ある人は誰かとメッセージを交換し、
ある人はネットスーパーで食材の買い物をし、
ある人は飲み会に使用する店を探し、
ある人は電車やバスや映画や舞台のチケットを予約し、
ある人は病院を予約し、
ある人は銀行振り込みをし、
ある人はゲームをしているのである。

スマホもPCも、ただの文房具である。
確かに、一部のコンテンツが依存性を持つことは否定しない。
しかし、スマホやPCがもはや、仕事のみならず、災害情報の入手やワクチン予約などの行政手続きにすら欠くべからざるものであることを考慮すると、無闇に恐れて遠ざけることによるデメリットの大きさの方がまさってはおるまいか。
今や、LINEをやっていないと学校の連絡網にすら入れてもらえず、スマホを持っていないというだけで水族館や遊園地のチケットも買えない。
難関国家資格を持つ大学時代の友人は、ただPCを使えないが故に就職に大層苦労していた(今は使えるようになって就職しておられる)。

すると、もはやスマホやPCを適切に扱う能力は、かつての『読み書き』に相当するものなのである。
そして、生まれた年などによりその『読み書き』に困難を覚える層が多くいる場合、かつての『代書』や『代読』などのように、他者による手助けが必要であるのだなぁと、ワクチン代理予約のニュースを観ていて、あるいは、ファミレスの注文用タブレットに『使用方法がご不明な方はスタッフにお申し付けください』とラベルが貼られているのを見て、思うのである。
さらに言うならば、個々の『読み書き』スキルはさておき、『読み書き』に困難を覚えるボリュームゾーンの人々が、圧倒的なイニシアチブを持つこの国って一体なんなんだろうなと思う次第である。