年明け、子供達を連れてスキー旅行に行ってきた。
子供達は初めての、私は、実に30年弱ぶりのスキーである。
私の住む東京には滅多に雪が降らず、降ってもそれほど積もらない。
360度、見渡す限りの、これでもかと言う程の白銀の世界を、子供達に見せたかったのだ。
旅行嫌いの夫には猫の世話係として留守番をしてもらい、子連れサポート要員として実家の父に来てもらった。
私は車を運転しないし、父もまた高齢であることから、東京駅から新幹線で直行できる、新幹線駅直結のスキー場、ガーラ湯沢をチョイスした。
ガーラ湯沢の周辺には、旅館等も多くある。
ガーラ湯沢は、1990年、日本に希望が満ち溢れていた時代に、JR東日本が母体となって開設したスキー場である。
あの頃は、ナウなヤングが週末に出会いを求めてスキー場に来ていたのである。
日本のスキー人口は、バブル崩壊とともに現在まで下降の一途をたどる。
右肩下がりのそのグラフは、実質賃金のグラフとピタリと重なる(各グラフは適当にググってください)。
だから、今時の若者やファミリー層はビデオゲームやスマホに夢中で、スキーなんてオワコンで、きっとゲレンデはガラガラだろうと、施設は古びているだろうと、そう思っていたのである。
ところが。
ゲレンデはしっかりと賑わっていた。
そう、世界各国の言語で。
しばらく見ないうちに、東京以上に国際色豊かな場所に、湯沢は生まれ変わっていた。
施設内のあらゆる案内は数ヶ国語で表示あるいは放送され、体感であるが3割以上が外国からのユーザーのように思えた。
スキー場が開設するスキースクールも英語が選択でき、その他、独自のスクールツアーのグループが、様々な言語で、ゲレンデ上にいくつも展開していた。
外貨が落とされ充分に儲かっているのであろう、施設はバッチリメンテナンスされ、清潔で頑丈そうであった。
そうか、日本が30年の停滞に喘いでいた間、世界はしっかりと成長し、たまの休暇に安い日本に来て楽しむという構図が、湯沢にも及んでいたのですね。
ガーラ湯沢駅からゲレンデへは、ゴンドラに乗って移動する。
真っ白な急斜面をゴンドラで登りながら、私は嘆息する。
「あの頃の日本人は、これだけの物を作る金と希望を持っていたんだねぇ……」
父が答える。
「そうか、今は無いか」
「無いだろうねぇ」
バブルより前、高度経済成長期、東京から新潟に続く大動脈を通したのは田中角栄である。
色々と闇のあった人であるが、遺したものも大きかった。
ドイツに、ノイシュヴァンシュタイン城をはじめとする、ルートヴィヒ2世の遺した城塞群がある。
狂王とも称された彼の城は、彼の頭の中の詩的な美しさを追求したものであり、実用性に欠け、当時の国民からすれば無駄金遣いに他ならなかった。
しかし、第二次大戦後、ドイツはそれらの古城を繋ぐ道を作り、アメリカ人観光客向けに『ロマンティック街道』と名づけ、観光資源とした。
今、ロマンティック街道はドイツ観光の目玉となり、世界から観光客を集め続けている。
金を掛け、しっかりとした物や美しい物を作ると、後世まで金を産み出し続ける(こともある)。
バブル崩壊以降、日本は何かそういったものを作っただろうか。
思いつかない。
モノレールはまだ出来ていないし。
デジタル分野はどうか。
mixi? ベースとなるインターフェースが日本語であったため、商圏が狭く世界で普及できなかった。
ニコ動? ベースとなるインターフェースが日本語であったため、商圏が狭く世界で普及できなかった。
ファイル交換ソフト? 安全策が実装される前に潰されてしまった。
ポケモンとジブリくらいのものか。
日本の公用語に英語が含まれていたら、mixiやニコ動は世界を商圏に出来たかも知れないのに。
日本語を捨てる必要は無いが、英語を第二公用語にするくらいの事が80年前なぜ出来なかったのだろうかと思う。
世界ランク三十何位かの大学に入る事が、およそ考えられ得る最高の成功であるかのように語られる国、日本。
他国の同世代達がどのようなルートを歩んでいるかに全く興味を示さない国、日本。
それを極めて見えにくくしている、言語の壁。
戦後からの数十年間、日本は、製造業をして食べていた。
これから先の30年、日本は何をして食べていくのだろうか。
専門技術を持った人間が海外に出稼ぎに行き、国内に残った人間は観光業に就く。
そのようにして1億人が食べていくことに、日本は決めるのだろうか。
今も色々な職業があり、人々は様々な職業に就いているが、肝心の『外貨を稼ぐ』職業が、それこそ観光業と一部の製造業くらいしか、思い浮かばない。
ガラパゴス化と言語的縛りの中で世界展開が上手くいっていないとはいえ技術力はまだ高い(頭脳流出のただなかにあるとしても)。
ニーズの高まるグリーンテック/クリーンテック方面で存在感を出せないか。
農業は、食料自給率はどうするつもりなのだろうか。
それを考えるのが、私の世代的また社会的職業的責任に含まれるのだろうか。
そんな事を考えながらゴンドラを降り、ゲレンデに立った。
さて、娘は初日はスキー教室に放り込んだ。
私が教えると間違いなく喧嘩になるからだ。
娘と接する数年間で、『教えるのはプロに任せるに限る』という知見を私は得ていた。
それくらい私には、努力と反復練習を必要とする小脳系のスキルを教えるノウハウが無い。
『こう教えればいいだろう』と、良かれと思って練習プログラムを組んでも、娘からは「そんな教え方じゃ出来ない!」と反発される。
物事の理屈や成り立ちはいくらでも教えられるし娘も素直に聞くが、小脳系のスキルは理屈では太刀打ち出来ず、娘も素直に聞かないのだ。
果たせるかな、スクール参加により娘はそれなりに滑れるようになり、翌日からは私などよりよほど速く上手く、スキーを楽しんでいた。
良かった。
私が教えていたら、娘と険悪になり娘は滑れるようにならず、最悪な旅となっていただろう。
ゲレンデには、華麗に滑る若いお母さんと、その後ろについて滑るまだ小さい未就園児のような子の組み合わせも見た。
子供に教えるの上手いんだろうなー、と思う。
まあ、ヨソはヨソである。
私に教えられる事はきっと別にあるのだ。
尚、息子はまだ小さく、今回はスキーをさせなかったが、ガーラ湯沢には雪遊びエリアもあり、雪玉作りやソリ遊びにより小さい子でも充分楽しめることを付記しておく。