nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

登園拒否で子供の『サボるスキル』を磨け!

子供だってサボりたい

娘は、幼稚園の年少クラスに通っている。
そして時々、「幼稚園に行きたくない」と言う。
理由を聞くと、以下のような事らしい。

  • 給食が食べきれない
  • 疲れる
  • 時々、嫌な事を言ったりしたりする子がいる
  • 嫌いな活動(おにごっこ等)がある


こんなとき、どの程度行く事を強いれば良いのか、いつも迷っている。
本人を説得したり、幼稚園に相談したりする事で解決し、行ってくれる事もあるが、例えば「疲れる」という様な事に対しては余り手の打ちようがない。
もしかしたら、睡眠を長くとれるよう導く事で対応出来るのだろうか。
しかし、日本で子供を世界平均並に長く寝かせる事はとても難しい。
何度かは、泣いて暴れる娘を脇に抱えてバスに押し込む様な事もした。
そんな日でも幼稚園には娘と仲のよい友達もおり、行けばそれなりに楽しんで帰って来るのであるが、本当にそのような対応で良いのか自信はない。

また、「お腹が痛い」と言って休みたがる事もある。
熱もなく、前後の会話から仮病である事はほぼ確実なのだが、それを本人以外誰も証明できない為、休ませたりもした。

 

何の為に行くのか

そもそも何故、幼稚園に行かなくてはならないのだろうか。
これには次の様な目的があると思われる。

【親から見た、子供にとっての目的】

  • 学習
  • 集団行動に慣れる
  • 同世代の子と関わりを持つ
  • 勤勉で規則正しい生活を送らせる
  • 自分が他の子と比べてどんな分野が得意であるかを知る


【親から見た、親にとっての目的】

  • 一日中朝から晩までずっと相手をしなくて良い


【子供から見た、子供にとっての目的】

  • 友達と遊べる
  • 好きな活動がある


この中で、どうしても無理矢理毎日遅刻せず行かさなくては達成できない目的というのは、もしかしたら、存在しないのではないだろうか。

強いて言えば、『一日中朝から晩までずっと相手をしなくて良い』という点である。
普段幼稚園に行く子供が、たまに一日中家に居るだけで、「あれやってー」「これやってー」「たいくつー」の嵐が発生し、様々なタスクに滞りが生じる。

私が子供だった80年代は、年中クラスから幼稚園に通う二年保育が一般的であった。
年少クラスの年齢の子供は、家で親に保育されていたのだ。
何故今、少なくとも東京では、3年保育が一般的なのであろうか?
当時と今が違う点として、子供が保護者の付き添い無しに外へ出る事が禁忌となった、という事があるように思う。
昭和の頃は、子供は子供だけで道や公園で遊べていた。
今より昔の方が安全だったかというとそんな事はなく、事故などは結構起こっていたのであろうが、今ほど、安全に対する意識が高くなかったというか、子供が大人に囲い込まれていなかったように思う。
尚、宮崎勤で有名な、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の被害者たち(4~7歳)は、大抵、子供一人で歩いているところを誘拐されている。
今、4歳で一人で外を歩く子供はいないであろう。

大人が子供を常時絶対に守らねばならないという条件のもとで、幼児(乳児ではない)と親が一日中向かい合って過ごすのは、結構きついものがある。
少なくとも自分の肉体や脳味噌は、そういう風に出来ていないと感じる。
そうすると、早い時期に幼稚園に入れるしかないのだ。
しかしそれは親の都合である。
子供にとっては、年少という年代において、どうしても毎日規則正しく幼稚園に行かなくてはならないという理由は特に存在しないのではないかと思うのだ。

 

サボるスキルは必要だ

反対に、『時々サボる』というのは、実は生きる上でとても重要なスキルなのではないだろうか。
私は、子供に求めたい事は、究極的には、『早逝しない』という事である。
どんなにダメな人間であっても、少なくとも60歳くらいまでは生きて欲しいと思う。

私が昔システム会社で働いていた頃、会社内に、鬱になる人間がとても沢山いた
体感で全体の3%くらいは居たように思う。
それどころか、状況的にどう見ても過労死、という方もおられた。
何故、そうなる前に休まなかったのか、辞めなかったのか、と思う。
しかし、自分が渦中にいるとわかるのであるが、自分が抜けたら周りに迷惑が掛かるとか、後で叱責される等と思い、休めない、辞められないのだ。
その根底には、強い責任感や、人は毎日早起きして通勤通学し組織に合流しなくはならない、という思い込みがある様に思う。

私は、特に子供にサラリーマンになって欲しいという希望はない。
勤勉であって欲しいという気持ちも、そんなには無い。
自分が選択した道で、細々とでも自立して生きていってくれればそれでよい。

逆に、『勤勉でない』、『周囲に合わせて規則正しく生活できない』、という性質が人生に奏功する事すらあるのではないだろうか。
私は大学で美術を学んでいた。
同窓生には現在、サラリーマンではない人間が多数いる。
有名な人もそうでない人もいるが、それぞれ自立して生きている。
そういう人の中には、「自分にはサラリーマンは無理だからどうしてもフリーランスにならなくてはならない」という背水の陣を敷いて、実現された人が、結構いたように思う。
一方私は、親の勤勉な教育により、割と勤勉に生きる事が出来、且つ、『失敗してはいけない』の呪いにより不安定な道を選択する事もできず、無事安定したサラリーマンとなった。

 

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実際サラリーマンであることの恩恵は絶大であったし、どちらが良いのかはわからないが、勤勉でない事が必ずしもマイナスとなるばかりではない事だけは確かである。
なお、勤勉で真面目な私は、子育てで会社に迷惑を掛ける事が余りにも恐ろし過ぎて(他にも色々理由はあるが)会社を辞めた。

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また、元同僚に、物凄く頻繁に会社をサボる人が居た。
表向きは体調不良や家庭の事情等様々な理由であるのだが、実際はダルい、とかその程度の事で休んでいたらしい。
遅刻も殆ど毎日である。
しかし彼は、会社からの評価は結構良かった。
彼は人との交渉が頗る上手く、また、プロジェクト全体及びチームメンバー全体を俯瞰して見る事に優れており、チームメンバー及び顧客から非常に頼られていた。
彼は、勤務時間は周囲に比べて物凄く短いのであるが、例えば、他の人の様に100時間残業する代わりに、見積もりと要求のおかしさを見抜いて直接顧客の元に出向き交渉し、追加予算を取ってきたりする人間であった。
ちなみに彼は、実家で過ごした幼稚園から高校まで、たとえ熱が出ても休ませて貰えなかったそうである。
そう、幼稚園や義務教育を皆勤したからといって、勤勉な人間が育つとは限らないのだ。

反対に、勤勉に無遅刻無欠席であっても、吃驚する程仕事が出来ず、自分から会社を辞めてしまったような同僚も居た。

勤勉であることと、仕事ができることは、そんなには関係が無いように思うのである。

介護や子育て、共働き等、個人が抱えるバックグラウンドは様々なものとなり、今後、個人の組織への依存度は、どんどん下がっていくのではないだろうか。
そして、毎日早起きして電車に揺られ、会社にいくというスタイルもメインストリームでなくなる可能性があると思う。
形だけの勤勉さは、役に立たなくなるだろう。
そんな中、どうしても疲れて疲れて仕方ないときは、会社に行かない決断をする(さらには会社を辞める)、というのは自分の命を守る為にとても重要なスキルであるように思う。

もちろん、同年代の集団の中で過ごすという事も重要である。
自分が他者に比べて何が得意であるか自覚する事は自立する為に必要であるし、どんな仕事にもコミュニケーション能力は必要だからだ。
様々な興味を広げる機会にもなろう。
しかし、時にはサボってもいい
幼稚園児の今、数日サボったからといって、将来怠惰な人間に育つとは限らない。
そして、将来怠惰である事が良いのか、勤勉である事が良いのかも分からない。
それならば、時には「サボる練習だ」と思って前向きに休ませてみても良い。
悩んでイライラするよりずっと良い。
何なら児童館にでも行けば良い。
子供を遊ばせている間に、児童館の先生に相談すれば、先生の方から子供に何か働きかけてくれるかもしれない。
親以外の人間の言葉の方が、子供の心に響く事もあるかもしれない。

そんな事を思いながら、今日は娘に幼稚園をサボらせた。