nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

ピアノと習い事

嫌な夢を見た。
ピアノを弾く夢だ。

私は幼い頃、ピアノを習っていた。
ピアノに興味はなかった。
憧れもなかった。
才能もなく、楽しいと思って弾いたことはなかった。
ピアノは母の趣味だった。
母はクラシック音楽が大好きで、ピアノが大好きだ。

もしかしたら、母に「ピアノを習いたい?」と聞かれ、「うん」などと返事をしたのかも知れない。
だが小さい子がその言葉を、どれだけ重く受け止め、未来を見通し、条件を比較し、熟考して返事を出来ていたのかは分からない。

とにかく私はピアノを習い、ピアノ教師に毎回叩かれ、毎回自信やプライドを粉々にされ、毎回泣いて過ごした。
3年間か4年間程習っただろうか。
その間、一度ピアノ教師が変わったが、新しいピアノ教師もそんな感じだったので、私は未だにピアノ教師というものは子供や生徒を泣かせ叩く存在だと思っている(そうではないピアノ教師の方がもしいたらすみません)。
私がピアノを大嫌いで、余り練習せずに通っていた為だと思うが、教師もやっていられなかったと思う。

そんなある日、ピアノ教師が私に聞いてきた。

「今度、ピアノの発表会があるけれど、出る?」

そう聞かれても、小学校低学年の自分には判断出来ないと感じた。
理由は以下の通りである。

  • 前年のピアノ発表会には出ていたが、そもそも生徒側に決定権があると思っていなかったのでいきなり聞かれても戸惑う。
  • そもそも自分の意思で通っているわけではない(と感じている)ため、自分に決定権があると思っていない。
  • 参加する為にお金がいくら掛かるのか分からないので、自分だけでは判断出来ない。
  • 発表会の会場まで恐らく自分一人で行けないので、親の都合も確認せねばならない。


そこで、母に相談します、と言って帰ったわけだが、それを報告した母の反応はこうだった。

「それくらい自分で決めなさい!」

私は面喰らった。
自分の意思でやっているわけではないことなのに、どうしたいか決められるわけがないではないか。
何故母は、上記のような事情が絡むことを、低学年の子供が一人で、しかも即座に決める事が出来ると思ったのだろう。
全く分からなかった。
でも今は予想できる。
きっと母は私にこう言って欲しかったのだ。

「お母さん、今度ピアノの発表会があるんだって!
 私、頑張る!
 だから出させて!」

そして今は、自分がなんと言えば良かったのか分かる。

「お母さん、私、もうピアノやめたい!」

そして発表会当日、電車を乗り継いで小一時間掛かる会場に母は私を連れて行った。
電車から降り、なぜか怒りながらこう言った。

「全くもう、お母さんがあなたくらいの頃は、自分で電車を調べて一人でこれくらい出掛けていたわよ!」

この発言については今でも意味が分からない。
何故、好きでやっている事ではないのに、低学年の子供が、自ら進んで、電車を調べて小一時間の距離を一人で移動出来ると思ったのだろう。
もしかしたら、母は私にこう言って欲しかったのかも知れない。

「お母さん、発表会楽しみだなぁ!
 楽しみすぎて私、自分で電車調べちゃった!
 次はこの電車だよ。
 早く早くぅ!」

そして今は、自分がなんと言えば良かったのか分かる。

「お母さん、私、もうピアノやめたい!」

実際私は、何度かやめたいと言っていたと思うのだ。
しかし、大人になると忘れてしまうのだが、子供というのは運命に対してとても受動的なのだ。
何か理不尽な事が起こっても、それを自分で変えることが出来るだとか、それに対して怒っても良いのだという考えは、そもそも発想として湧かないのだ。
私は、習い事というのは自分で選べるものでは無いと半ば思っていた。
そして、習い事というのは苦しいもので、楽しさや興味の追求の為に行うものでは無いと認識していた。

私は一度、母にバイオリンを習いたいと言った事があった。
小学校の音楽の時間にバイオリンを持ってきた子がいて、少しだけ弾かせてもらったのだ。
その時の音がとても心地よく、好きで、もっと弾いてみたいと思ったのだ。
母はこう言った。

「バイオリンなんて、最初は全然音が出ないのよ。
 半年間音が出ないのよ。
 半年間も音が出ないのに、頑張れるの?」

私は、音を出したのに。
あの音をもっと聞きたいのに。

私はバイオリンを習う事を諦めた。
母がどんなデータを根拠にそう言ったのかは分らない。
バイオリンは大層お金が掛かると聞くから、それを心配したのかも知れない。
近くに教室が無いのではないかと思ったのかも知れない(実際は有った)。
そういう理由であれば、そう言ってくれれば、子供としても納得出来るのだ。
しかし、何も調べず、即座に上記の回答を出したところを見るに、単に母の好みに合わなかったのだろう。
母は本当にピアノが好きなのだ。

大きくなり、私が働くようになってから、母はしばしばこう言うようになった。

「あなたもあなたの姉も、全然ピアノを弾かないから、仕方なしに私が時々弾いているのよ」

私は当時、大人になってさえ、ピアノを嫌いな、ピアノを弾かない自分が悪いと思っていた。
自分のことを、自分からやりたいと言って習わせて貰っていたのに、すぐに飽きてしまった怠惰な人間であるかのように誤認していた。
そこで、罪悪感を感じながらただ黙っていた。
若しくは、「時々一人で弾いているよ」などと答えていた。
しかし今は、自分がなんと言えば良かったのか分かる。

「お母さん、私、ピアノなんて大っ嫌い!
 小さい頃からずっとずっと大っ嫌い!
 いますぐそのピアノ、斧で滅茶苦茶にぶっ壊したい!!

そう、ピアノを嫌いな人間は、ピアノを弾かなくてもいいのだ!!!
ピアノを弾かないという事に、罪悪感を抱く必要などないのだ!!!
私はその事に、子供を産むまで気がつかなかった。

さて、私は結婚して家を出て、里帰り出産をした。
その頃母は、毎日のようにピアノを弾いていた。

私はピアノの音が嫌いだ。
辛いレッスンを思い出すからだ。
更に、家のピアノは一度も調律したことがない。
更に、母の選曲は私が嫌いなものばかりだ。
母がピアノを弾きだすと私は物凄く辛くなるのだが、それが、調律が狂っているせいなのか、人から指導を一度も受けたことのない母の、叩きつけるような自己流の弾き方のせいなのか、選曲のせいなのか、その全てのせいなのかは分らない。
とにかく我慢できないくらい辛いので、母がピアノを弾きだすと私は臨月のお腹を抱えて、暑い車の中に逃げたりしていた。
それでも音は追いかけてきた。
子供が産まれてからは、乳児が寝ている隣でピアノを弾きだすなど、本当に毎日嫌であったが、居候の身なので我慢していた。

私は、母にこう言いたいのだ。

母がピアノを習えばいい。
ピアノを好きなのは母なのに、なぜ、自分で習わずに、子供にばかり習わせるのだ。
ピアノを習うことはとても辛いことなのだから、そんなに好きならば人にやらせずに母が習えば良いではないか。

育児に一度も失敗しない人間はいないと思うが、皆、こういった思いをどう処理しているのだろう。
世界標準から見たら贅沢な不満であると、良い事だけを思い出し、親に感謝して過ごしているのだろうか。
喜寿を迎えた母にこの思いをぶつけるのは、幼い浅はかな行為だろうか。
ブログに吐露して黙っているのが良いのだろうか。
分からないでいる。

 

 

ピアノのおけいこ (うさぎのルー絵本 (1))

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