nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

『わたしのかんがえたさいきょうのじんせい』を子供に歩ませるという業(ごう)

この本を読んだ。

 

 

うわー、、こわいなー。
一言でいえば、教育虐待の話。
更には、親が子の人生をコントロールしようとすることに対する業の深さの話。

親が、自分の有りように対するコンプレックスを、子に見栄えのする学歴と職業を得させる事で昇華しようとする、みたいな。
子供を何とかして成功させる事が、親自身の人生の目標になっちゃう、みたいな。
子が親の希望する学部に合格するまで、軟禁状態で9浪もさせるとか。
子供がどのようなルートを進むかを、子が生まれた時から親が決めていたとか。
めっちゃホラーである。

ウチの母も、自分がピアノを好きなのに何故か自分ではなく娘である私にピアノを習わせる事で昇華しようとしていた。
大変迷惑であった。
私はこの本の主人公ほど親に対して素直でなくて良かった。
今でも実家のピアノは斧で打ち壊したいくらいには嫌いだ。
母は、孫である私の息子にさえ、「この子は音楽の才能がある。音楽の道に進むと思うわ」などと決めつけるので、心の底から怒りが湧く。
子のみならず孫さえも、『わたしのかんがえたさいきょうのじんせい』でコントロールしようとするのか!!

父は父で、『おれのかんがえたさいきょうのじんせい』のイメージを持っていて、私に押し付けようとしてくる。
それは『学童期から老人になるまで一瞬も絶えることなく組織に属して過ごす事』なのであるが、私がそれに反して、子育てに集中するため離職した時も、明確に反対していた。
父は、新聞に書かれている情報(出産で離職したら二度と正社員になれない)ばかりを見て、『私』を見ようとはしなかった。
メディアの煽る貧困のストーリーばかりを読んでいて、一度会社を辞めたら、つまり『おれのかんがえたさいきょうのじんせい』から外れたら、たちまち貧困に陥ると思っているのだ。
メディアではなく『私』を見る人(夫、同僚、友人)は、口を揃えて「あなたなら必ず戻れる」と言っていたにも関わらず。
父の考えた最強の人生に反発して、自分で決めて本当に良かった。
父は父で、『いなかの本家のかんがえたさいきょうのじんせい』(長男として田畑を守って一生を終える事)に反して出奔したからこそ自分の満足行く人生を送れているのだろうに、子供自身が考えた人生のほうが時代や本人の資質に合っているとはカケラも思いもしないのは、一体何故なのか。

『子供は未熟だから導かなくては』『親は子より絶対に正しい。だって人生経験が違うから』という、太古から連綿と続く、呪い!
呪い!
呪い!
父自身も私も、コンピュータ技術者とコンサルタントという、それぞれの親世代には存在すらしなかった職業に就いている。
そう、私の子らは、私の聞いたことのない職業に就くかも知れないのだ。
その頃には、同じ組織に属し続けて働く、という感じでも無くなるだろうし、『組織』の概念自体も変わるだろう。
技術の発達により、『働く国』と『住む国』が同じではないことも、これからはもっと当たり前になるだろう(税制は難しくなるだろうが)。
未来ではもう、多くのことが距離を乗り越えて実行出来るようになるのではないか。
その時、我々親の振りかざす、およそ30年も昔の常識は通用しまい。

ほんと、『子は親とは違う人間』って、紙に書いてよく見える場所に貼っておかなくてはならんなーと思う。

日頃の、自分の子への接し方を、胸に手を当てて改めて考えてしまう本。

この本に出てきた母親は、何故、子供に特定の職業を押し付けるにも関わらず、自分でその職業に就かなかったのであろうか。
主人公は、父親をはじめ、周りにSOSを出していたのに、何故、周りは主人公を助ける事をしなかったのだろうか。
その背景には、子は母親に属するもの、子の成長結果は母親の責任、子の成功は母親の手柄という価値観がなかろうか。

私は、今から数十年間の日本で、若者、特に女性がのびのびと生きるのは割と困難だと思っていて、娘には出来ればどこか水の合う外国に早めに逃げ出して欲しいなぁ、などと思っている。
その為には、マレーシアかカナダあたりへの教育移住などが出来たら最高だなぁ、漢字覚えるリソースを英語に割り振れるし、などとつい考えてしまうのであるが、これも一つの、『わたしのかんがえるさいきょうのじんせい』なのだろう。

なお、マレーシアは時差も少なく、私の仕事を継続しながらの移住も現実的なので、割と本気で子供らに「マレーシアに住まない?」などとたびたび聞くのであるが、今のところ前向きな返答は得られていない。
自重しつつも、漢字の書き取りにぶーたれる娘に、
「漢字から逃れたかったら一刻も早く自力で海外に出ろ」
と洗脳をする日々である。
これもアカンのでしょうね。