nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

お手伝いは有償? 無償?

娘の今のブームは妖怪ウォッチである。
腕時計型のおもちゃに入れると音が鳴る、メダル状のコレクションアイテムを集めている。
夫がそれを大人買いし書斎におもちゃ屋コーナーを開設しており、娘は小遣い(お年玉など)を握りしめて階段を駆け上っていく。
そんなわけで娘は今、お金が欲しくてたまらない。
家事などをお手伝いするからお金を頂戴、という。
それは構わないのであるが、夫と私で、子供への報酬に関する感覚がかなり異なっていることが判明した。

私の親は戦前戦中の寒村生まれである。
子供は、家の手伝いをするのが当たり前であり、出来る手伝いはなんでもするべきであり、そこに対して報酬を求めるなど論外である。
私は母からそのように育てられた。
そんなことが呪縛となってか、私の提示額は、夫よりもかなり低かった。

私は当時から母の育児の数々は他の多くの家庭と比較しても少々古すぎるのでは、と感じることが多かった。
そのため自分の子を育てる時は必ず時流に合った子育てをしたいと思っているのだが、もしかすると自分で思っているよりもずっと昭和の寒村的感覚が抜けていないのかも知れない。

とにかく、私の提示額(今考えると殆ど無償に近い)ではいくら頑張ってもなかなかメダルはゲットできず、かえってモチベーションが下がってしまう気もしたので、夫の提示額で妥結した。

しかし、よく考えるとこの問題、色々と奥が深くて複雑だ。

子供のお手伝いが有償か無償かという問題は、そのまま、家事労働が有償か無償かという問題と照応してしまうのではないか。

子供に無償で家事労働をさせるということは、やがて、家事はタダでなされるべき、ひいては、時給換算すると雀の涙でしかない、ベルマークを分類する作業が無償でなされるべき、ひいては、女の労働力はタダ、みたいな昭和的思考にたどりついてはしまわないか。
子供の労力により家事が軽減されるのでれば、大人はその時間で別の労働をすることが可能になるわけで、その一部を子供に還元するのは当然である。

一方、家族のメンバーとして、自分を含めた家族が生活を回すための家事労働をするのは当然、という考え方もできる。
これ自体は別に古臭い考えでもなんでもない。
家事は生活の一部であり、『生きること』の一部である。
そこに特段の報酬は必要ないとも言える。
仮に一人暮らしなどすれば、誰に報酬をもらわずとも無償で家事をしなくてはならない。

結局、『自分の分』を超えた他のメンバーの分の家事をする際に報酬が発生する、というのが一番クリアーになるのかも知れない。
しかし、家族という人対人の関わりの中の、助け合いの部分を厳密に数値化し計算するのは困難である。

有償、無償、どちらの考え方にも一理ある。
家庭の数だけ答えは有ろう。

とりあえず、夫も私も娘に好きなおもちゃで楽しんで欲しいという思いがあり、そのために本人が張り切ってお手伝いをしてくれると言うのだから、我が家においては今の設定でWin-Winなのだと思う。

 

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