nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

チコちゃんに叱られたくない

私は、真面目な人間である。
逸脱が無い、という意味では無い。
全ての言葉に対して、真に受けすぎるのである。
詐欺や押売りには引っかかった事は無い。
彼らの嘘は、『騙す事で彼らに利益が生まれる』ので、理解出来る。
分からないのは、軽い冗談などの『益無き嘘』である。
例えば、駄菓子屋などでおっちゃんに
「はい、30万円ね」
と言われたことがあろう。
これが苦手である。
流石に、おっちゃんが子供を派手にカモろうとしようとしているのでは無いだろうと理解はできるものの、
『え、突然何言ってるの、この人。
 私、どうしたらいいの???』
と混乱して固まってしまう。
あるおっちゃんはそれを見て
「冗談通じないんだね」
とか何か、呆れたふうな事を言っていた気がする。

また、私が新人の頃、新人だけの飲み会に、会社のちょっと偉い人が突然参加してきたことがあった。
その偉い人は、別の新人に「飲め飲め」と酒を勧め始めた。
彼は
「いや〜、勘弁してくださいよ」
「もうホンット無理っす」
「いや、流石に飲めないっす」
とか言いながら、でもなんだかんだ言って飲んでいた。
何度飲んでもまた勧められる。
何回も、何回もである。
私は、彼が本気で嫌がっていると思い、そんな彼に飲ませる偉い人が余りに意地悪であると思った。
また、まわりの空気も重苦しく、皆がその偉い人を持て余しているように感じた。
彼も皆も自分のお金を払い、時間を費やし、何故こんなひどい虐げを受けなくてはならないのか。
楽しく飲むために集まったのではないのか。
私は彼が余りにも不憫になり、酒の勢いもあってか、静かに泣き出してしまった。
これは社会人にあるまじき情けない失態であり、自分でもとても嫌であったし今でも反省はしているが、抑えらなかったのだ。

すると皆は私をみてギョッとし、
「いやいやいや、冗談でやっているんだから大丈夫だよ」
「皆冗談って分かっているんだよ」
などと言い出した。
飲まされていた彼さえも、である。
なにやら、そういう冗談の型があるらしい。
今でも理解不能である。

私の実家の家族で他に、斯様に言葉を真に受ける傾向があるのは、父と姉である。
母はその点に関してはまあ普通である。
父は私に輪をかけて冗談が通じない。
例えば、姉の昔のピアノの発表会のレコードを皆で聴こう、となる。
誰かが間違えて別の、立派なフルオーケストラのレコードを掛けてしまう。
私がそれに対して
「へぇ、おねえちゃん随分上手だったのね」
と言う。
無論冗談である。
しかし父は笑いもせず
「これは◯◯(姉)の演奏ではないよ」
と言うのである。

また、テレビ番組のCMまたぎの演出で、CM前にレポーターが何かの光景をみて驚きの表情を見せるのだが、肝心の光景は視聴者にはなかなか見せず、CM後も同じシーンを繰り返し、相変わらず光景はなかなか見せず、という型がある。
父はこれに完全にキレていた。
「これでは視聴者がレポーターの感情に全く共感できないじゃないか!」
と言いながら。

そして父も姉も私も、人がウェブサイトの事を『ホームページ』と言うと怒る。
その場では怒らないが食事の時間などに
「ホームページとは一連のページ群のトップに表示されるページのことを言うのだ!
 何故こんなにも誤用が広がっているのだ!」
と互いにぶちまけあう。

とにかく冗談が通じず、言葉を真に受け、曖昧な事が苦手な父と姉と私は、システム屋であることが快適である。
曖昧さを解決していく仕事であるからだ。

因みに父は昔アメリカで働いていたのだが、こんなにもジョークを理解出来ずにどうやってあの国で円滑なコミュニケーションをはかっていたのであろうか。
父は日本に帰ってきた事を
「人生最大の miss take だった」
と語るくらいなので、恐らく上手く適応していたのであろうが、一体どうやって?
人生の参考として聞いてみたいが、冗談が通じないという自覚が恐らく無い彼に対して
「あなたは大変冗談が通じないですがどうやってアメリカで通用していたのですか?」
と聞くのは何だか失礼な気がして聞いていない。
アメリカの技術者も大概ジョークが通用しない人々なのかも知れない。

前置きが長くなったが、NHKの『チコちゃんに叱られる』(以下、『チコちゃん』と呼称)である。
私は近年、テレビは自分ではドキュメンタリーと紀行ものとロシア時代劇とルパン三世シリーズしか観ていない。
ワイプやCMまたぎなどの演出がイライラするからだ。
観る時間が無いという理由もある。
しかし夫と娘が『チコちゃん』を好きなので、リビングに居ると観る羽目になる。

この番組、言葉を真に受けるタイプの人間が観ると、非常に疲れるのである。
まず、チコちゃんという5歳の少女のキャラクターから
「何故、◯◯なの?」
という問いかけがある。
これが耳に入った瞬間、真面目な自分は、持てる知識を総動員して答えねばならないと感じる。
そこで答えるのであるが、『チコちゃん』は普通のクイズ番組と違い、わざと質問と答えのニュアンスに微妙にズレが生じるように構成されているのだ。
「答えは、◯◯だから〜〜」
と発表された言葉は、大抵視聴者からすると意外なもの、それだけでは理解できないようなものであり、『え? なになに、どういうこと?』と興味をひいて詳細へ誘導するような作りになっているのだ。

例えばこうである。
チコちゃんが、

「何故、桃太郎は桃から産まれるの?」

と問う。
私はそれに対し、

「桃には古くから鬼を払うという言い伝えがあり、例えば古事記にはイザナギイザナミを黄泉の国に迎えに行った時に黄泉比良坂でイザナミの遣わした醜女達に投げつけて追い返したという記述がある。
 もっと元を辿れば中国の神仙思想に行き着く。
 西遊記では桃を食べて若さを保つ神仙たちのエピソードがある。
 主人公が鬼を倒すという運命を示唆するために、神聖な桃という属性を付与したのではないか。
 そもそも桃太郎の物語自体、中国の古書である『捜神記』あたりに原型があるのではないか。
 また、人間が物から産まれるという物語は世界各地に存在し、日本の垢太郎竹取物語チェコの切り株太郎など、偉業をもたらした者や恐ろしい事を成した者に人外の属性を与える物語形態の一種と思われる」

などと答える。
私の専門ではないので割と適当なのであるが、それでも問われた事に対して出来得る限り真摯に答えるのである。
しかしチコちゃんの答えはこうなのである。

「それは、大人が忖度したから〜〜」

曰く、昔から伝わる桃太郎の物語では、桃太郎は桃から産まれたのではなく、桃を食べたおばあさんが若返って桃太郎を産んだ、となっていたのであるが、明治時代にそれでは生々しいから桃から産まれたように改変した、とのことである。

え?
問いかけは、そこなの?
『なぜ、桃から産まれたか』
ではなく、
『なぜ、人以外から産まれたか』
なの?
元の問いかけと答えが、一対一になっていなくない?
『なぜ桃か』
の部分に対する答えが欠落してない?
そういう答えにするならば、質問文をせめて
『なぜ桃太郎は人間以外から産まれたのか』
としなくてはならなくない?
私は激しく混乱した。

あるいはこうである。

はやぶさ2は何の為に宇宙に行ったの?」

と問われる。
私は、

小惑星の欠片を取りに行ったんじゃなかったかな?」

と答える。
チコちゃんの答えはこうである。

「生命誕生の謎を解明する為〜〜」

もう、続きは耳に入らなかった。
質問が曖昧過ぎるのだ。
『何の為』と問うた時、答えのレベルはミクロからマクロまで無限に考えられ得る。

何の為に宇宙に行ったか。
小惑星の欠片を取りに行く為。
取りに行ったのは何の為か。
何かの実験の試料として使う為。
何の為の実験か。
生命誕生の謎を解明する為。
何の為に解明するのか。
何らかの病気の治療法を探る為、若しくは純粋に学問の為。
それは何の為か。
人間がよりよく生きる為。
それは何の為か。

以下、エンドレス。
もっと具体的に問うてくれないと、答えが一意にならない。
大学入試で出題されたら、どこかの予備校からツッコミが入るヤツである。
こんな意地悪なクイズ、一体どうやって答えろと言うのだ。
当てようが無いではないか。
混乱を通り越し、怒りが湧いてくる。

挙句、

「ボーッと生きてんじゃねーよ!」

と怒られるのである。

何故、精一杯真摯に回答したのに、曖昧な質問文によりミスリードされ、減点された挙句、5歳児にダメ出しされなくてはならないのか。
私は彼女に叱られるほどボーッと生きているのだろうか。
朝から晩まで子供達の世話でてんてこ舞いで、ボーッとなんてもう何年もしていない気がする。
なんでこんなやつに叱られなくてはならないのか。

満身創痍、疲労困憊である。

皆様ご覧ください。
これが、言葉を全て真に受ける人間の思考回路である。
夫曰く、
「テレビを観るのに絶望的なまでに向いていない」
のである。

 

 

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