nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

風の谷のナウシカと子供ヘイト、反出生主義について考える。

子供への虐待についての本を読んだり、あるいは子供ヘイトについて知ったりする中で、反出生主義という考えを目にすることがある。
『子供ヘイト』という言葉は今の所、世の中に存在しないのかもしれない。
しかし、よく聞く『子連れヘイト』という言葉はこの場合しっくりこない。
その言葉は子供に親が随伴する場合のみを指すけれども、特に親の随伴の有無を問わず、子供とその生態自体を嫌悪する声というのは間違いなくあるからだ。
だから、より広義の言葉が必要となりここに使用した次第である。
もしもあなたが『〜ヘイト』という言葉は左臭くてかなわんとお思いになるようであれば、ご自身のイデオロギーに合わせて『〜嫌悪』とでも読み換えて頂いて構わない。
次に『反出生主義』とは、一言でいうと、『こんなポイズンな世の中に人間を生み出すのは親のエゴだし地球も汚れるので産まない方が良い』ということのようだ。
『自分は産まない』というものから、『他者も産むべきでない』というもの、『人間は子を産んではダメだが獣は良い』というもの、『いやいや人も獣もダメなのだ』、というものまで、流派や個人により強度は色々あるようである。
ところで、『人間は子を産んではダメだが獣(猫とか)は良い』という考えは、種(species)のグラデーションを恣意的に一点でぶった斬ったものであり、進化論を否定しヒトとその他を明確に区別する一神教の教義の元でしか成り立たないと思うのだがどうだろうか。
猫も、ポイズンな世の中に産み落とされた仔の悲しみとか余り考えず、エゴで子を成しているよね、たぶん。

子供を産む事と経済力との相関性の強まりや、出産育児の自由化と個人化が進めば、性別間の憎悪、階層間の憎悪と同様に、子供ヘイトや反出生主義の流れもまた、ある程度出てきて当然なのだろうとは思う。

さて、話を戻そう。
反出生主義である。
おや、これって、風の谷のナウシカのテーマではないのか?
念のため『ナウシカ 反出生主義』のワードで検索してみると、やはりそういう解釈をしている方はいらっしゃるようだ。
しかしここでは敢えて他の方々の解釈には目を通さず、私の考えるところのナウシカと反出生主義の関係について述べていきたい。

よく知られているように、アニメ映画版のナウシカと漫画版のナウシカでは、テーマが反転している。
ナウシカの世界では、人間は世界を汚したどうしようもない存在であり、生まれ落ちても汚染と戦争で苦しみばかりが待っている。
子供を産んでも、また産んでも、次々死ぬ。
一方、腐海王蟲といった生態系(Nature)は、一見、人類を脅かしているようでいて、実はかつて人間の汚染した土壌を浄化しているのである。
ナウシカのスタンスは基本的に

「我々人類が愚かでごめんね、私たちなんていない方がいいよね、それに比べて王蟲さんと腐海さん偉大!」

ってな感じである。 
映画版で描かれるのはここまでである。
しかし、漫画版の終盤は異なる。
(以下、ネタバレ注意)

まず、それらのNatureはかつて人類が地上を浄化するために人工的に作り上げたものであったことが語られる。
そして、かつての人類の科学者たち(以下、神とする)は、浄化完了後、現在の野蛮で愚かな人類を、もっと穏やかで賢く、平和的な人類に取り替える計画を持っている(愚かな人類は消される)。

さて、よく言われるように、宮崎監督は、かつて処女ばかり描いていた。
ラナもクラリスもシータも、処女であり巫女であり聖女なのである。
映画版ナウシカもそうである。
しかし漫画版の終盤で、彼女は突如、グレートマザーに変わる。

グレートマザーというのは、大地母神であり、男性達の構築する『社会』と対立する魔女である。
生命の生殺与奪の権を持ち、男性達が『社会』を作る上で、畏れるあまりに多くの宗教および文化圏で封印されてきた存在である。
『社会』が歓迎するのは処女マリアである。
『社会』が恐れるのは罪深いほうのマリアである。
社会規範によってコントロールが出来ないために恐ろしいのである。

ナウシカはまさにエゴによって巨神兵を自らの『子』とし、愛していないままに彼をコントロールする。
さらに、『社会』から疎まれ阻害される蟲使い達をも『子』とする。
蟲使い達は、無知で粗野で汚く、無垢で無邪気で、社会の規範からはみ出した存在である。
社会のルールに従わず、ヘイトを受けまくる鼻つまみ者。
これが、『子供及びその生態』の反社会的側面を表すメタファーでなくてなんなのか。
おまけに蟲使いは、『存在しても良い場所』が明確に定められており、そこ(腐海)からはみ出るとすぐさま迫害される。
出ることが許されるとしたら、帝国の人間など、社会規範を知るものが厳しく引率している場合に限る。
社会規範を知るものとは即ち保護者である。
おぉ、子供が存在しても良い場所が、家か公園か保育/教育施設か子供向け遊興施設に限られ、そこから出る際は(あるいは出なくても)常に保護者の随伴と完璧な制御を求められる現代を、先取りしたかのような描写……。
漫画版ナウシカの連載された時代はまさに、子供が存在して良い場所の制限が、ブラックリスト方式からホワイトリスト方式に切り替わっていった時代と重なる。
それと同時に子供は、常に我々の生活とともにある『普遍的な存在』から『レアな存在』へと移り変わっていく。

なお、社会的に容認され得る『無害で可愛い子供』であるところのテトは道中で死ぬ。
社会規範に従順で無害でただ可愛いだけの子供などというものは実際には存在しないからだ。
さらに、テトはナウシカの処女性を示す外部機関であったので、そういう意味でも終盤のナウシカには随行出来なかった。
物語の初めでナウシカは、テトを手懐けることで処女であることを証明し、巫女となる。
これは一角獣が処女にのみ懐くという伝説に因んでいると思われる。
処女性を放棄しグレートマザーとなった彼女は、もはやテトと共に居ることはできない。

『神=社会』の代弁者であったはずの彼女は、あらゆる地域や階層の人々と対話した結果、『蟲使い=子供』の親となるに至る。
他者との対話とはすなわち学習と成長である。
そして神に言う。
我々はどうしようもなく愚かだし地上は地獄だけれども、それでも血を吐きながら次代へ命を繋ぎ続けると。
生を放棄せず、よりマシな明日のために試行錯誤を続けると。
神はナウシカを「恐ろしい魔女め」と罵るが、ナウシカの命令を受けた子供(巨神兵)のビームにやられて死ぬ。

神に仕えし処女巫女が、子を成し神に反旗を翻し、出生を肯定したのである。

余談であるが、ナウシカは道中、清浄な土地でロハスな生活をする一人の神の使いの世話になる。
本来は自然の眷属であるはずの動物たちは、召使いのように従順だ。
穏やかで調和した、平和な空間である。
違和感を覚えるほどに。
そして神の使いであるところのロハスさんは「ここでずっと丁寧な暮らしをしようよ」とか言うのである。
グレートマザーであることに疲れ、一時的に元の少女に戻っていたナウシカは、そこで亡き母の幻影を見せられ屈服しかける。
しかし、休息によって再びグレートマザーとなった彼女はロハスさんの元を去るのである。
ロハスや丁寧な暮らしは、箱庭の中の理想に過ぎない。
自然とは即ち汚穢である。

生きることは苦しく、人間の活動は環境を破壊し、人間は愚かで野蛮である。

しかし、ナウシカはそれらを肯定する。
生きる事は苦しみであるが、子をなし足掻く、人の営みを肯定する。
作られた生態系により自然を浄化し、野蛮な人類を取り替え安楽の世界を作り出そうという『彼ら』の行いを、生命への冒涜であると言う。

まとめると、映画版ナウシカは反出生主義、漫画版は反反出生主義となるのである。
出生主義ではなく反反出生主義としたのは、漫画版ナウシカの結末は反出生主義を乗り越えたところにしか存在し得ないからである。
出生主義とした場合、それはただの生命の営みに対する肯定にしかならない(普通のことだ)。

私は、宮崎監督は、映画版、漫画版、どちらも本心で描かれたと思うのだ。
自らを省みても、若い頃に色々考えていくと、どうしても反出生主義的なところに行き着きがちな期間というのはあるのである。
若く純粋であったが故に。
しかし、生命は混沌であり汚穢であり不浄であり、それらは自然なのである。
その気づきが漫画版に反映されていると、私は思う次第である。

色々書いたが、本当はどうなのかは知らない。
これはあくまでも私なりの解釈である。
風の谷のナウシカは他にもいろいろなテーマを孕んでいるし、私が別の事象に関心をもっていれば、また別の解釈が投影されるであろう。
だけれども、こんな世相や、それに伴う勝手な解釈もマッチしてしまう宮崎作品というのは、懐が深いなぁ。

腐海だけに。

 

 

 

 

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