nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

見知らぬ他人に話しかけることが出来ますか?

夏の盛り、遊園地のプールに行ったのである。

更衣室の狭い通路に、行列が出来ていた。

そこに、ベビーカーを押した女性が、更衣室から出てきた。

狭い通路では、中高生くらいの二人組が、おしゃべりに夢中になっていた。

そのせいで狭い通路は、ベビーカーが通れるほどの隙間はなくなっていた。

そこでベビーカーを押した女性は、「通ります」とでも言うのかと思ったら、一瞬困ったような顔をして、ベビーカーのタイヤを中高生のうち一人の足に押し当てた。

軽くぶつけたと言っても良い。

中高生は無言でどいた。

誰一人、「すみません」や「ありがとうございます」というでもなく。

終始双方、お互いに対して無言であった。

 

満員電車から降りる時。

「すみません、降ります」

と言う代わりに、ぐいぐいと身体で人を押し除けようとする人々。

 

自転車に乗って歩道を走っていて、前の歩行者を退かすためにベルを鳴らす人々。

 

対話や交渉をすっとばし、いきなりレジや電車の中で怒り出す人々。

 

見知らぬ人と対話や交渉が出来ず、いきなり怒りや肉体言語や睨みつけなどの挙に出る人々が、社会には多く存在するように思う。

 

私は、自分には発達障害の傾向があるのではないかと疑っているが、文化も常識も異なるかも知れない他者に『空気を読む』ことや『不文律』を要求した挙句に対話をすっ飛ばして実力行使をしてくる事が「一般社会における通常のコミュニケーション」なのだとしたら、コミュニケーション能力とは一体なんなのだろうかと思う。

つまり、私の目には、マジョリティである定型発達さん達の作り上げたこの社会における他者との関わり方こそが、ひどくコミュニケーションレベルの低い状態に見えるのである。

 

この、社会におけるコミュニケーションの欠如は、一体どこから来るのだろうか。

 

一つには、このような問題を論じる時によく引用される、『農耕社会と狩猟社会の違い』というファクターがあるかも知れない。

曰く、狩猟社会では、常識や社会習慣の異なる外部の人間、つまりヨソモノと接する機会が多いので、自然と、言語ベースでの対話や交渉で初対面の人間と会話する文化が醸成された。

一方、農耕社会では閉じられた『ムラ』で生活が完結しており、明文化されていないルール、つまり不文律や『空気を読む』能力により社会が回っていると。

 

ほんとかな?

と思う。

日本、特に地方に農耕民族やムラ社会の特徴が強く出ていることは間違いないが、他国の多くも農耕により発展してきたではないか。

しかし、何のデータも無い実感であるが、確かに日本人は、見知らぬ他者に声を掛けることを忌避する感覚が特に強いように思う。

周りを海に囲まれて、他民族との関わりが少なかったから?

 

そのヒントは、もしかしたら公園に無いだろうか。

 

小さい子供を近所の公園に連れていくと、例えば砂場などで、子供が他の子のおもちゃに興味を持ってしまうことがある。

そんな時、親たちは、必死でこう言う。

「それは他の子のだから、触っちゃだめよ。

 ほら、あっちに面白そうな物があるよ、行ってみよう!」

そうして、自分の子供が他の子と関わらないように必死で引き離すのである。

その根底には、「知らない子と関わらせてトラブルになってはいけない」という意識がある。

言葉をうまく使えない幼児は、ともすればすぐにトラブルになる。

「貸して」「貸さない」「取った」「取られた」が、すぐに発生する。

親たちはそんな時、子供が子供同士で解決する事は待たず、トラブルの芽を摘む。

なぜなら、見知らぬ相手の親がどのようなスタンスで子育てをしているか分からないので、怖いので関わりたくないのだろう。

かくして子供達は、

「かーしーてー」

「あーそーぼー」

「入ーれーてー」

も学ぶことなく、

公園という見知らぬ他者の居る空間で友達を作る機会を得ることもなく、

『見知らぬ人には絶対話しかけない』という行動が育まれていく。

 

言葉という緩衝材がないままに、お互いを際限なく誤解し、憎しみを募らせていく。

美しい国、日本。