時々、タクシーを使うことがある。
仕事の出張の際や、最寄り駅ではないちょっと離れた場所にある駅に行く時や、子供を連れて外出する際だ。
その時、こちらはもちろん敬語を使っているのに、運転手にタメ口を使われることがよくある。
これ、結構イライラする。
ここで確認しておきたいのは、このイライラは、
『こっちは客なんだから敬語使えや』
という感情ではない、という点だ。
私は日本の接客サービスは過剰であると思うし、客と接客者は一市民として対等であると考えているので、別に海外のような塩対応でも構わない。
私がイライラするのは、
『あなたは私がおばさん或いは歳下の女ではなく、おじさんであっても同じようにタメ口なのですか?』
という点に尽きる。
夫や、会社の同僚とタクシーに乗る時、タメ口を話す運転手はほとんど居ない。というか出会ったことがない。
もしや、客が女である私のみの時だけ、タメ口を話す方がおられるのではないか。
私はそれに対してイライラするのだ。
客が誰であれ、タクシー運賃は基本的に変わらない。
おじさんが乗っていようが、おばさんが乗っていようが、若い女が乗っていようが、変わらない。
であれば、同等の対応をして欲しい。
そういう感情なのである。
なぜタメ口タクシーの問題が発生するのか。
私は、運転手側の儒教に従う行動規範と、客側のサービス業に対する期待とが、ねじれの関係としてそこに存在するからだと見ている。
日本は儒教が染み付いた国である。
年長者を敬いましょう、が原則である。
そして、儒教といえば家父長制、男尊女卑である。
なんかあまりこういう左巻きっぽいことを書きたくないのであるが、事実であるから仕方ない。
儒教といえば家父長制、男尊女卑である。
書きたくないけど仕方ないから二回書きました。
とにかく、我々は、思っているよりずっと儒教に染まっている。
英語の教材を聴いたりしていると、時々、例文におけるお年寄りに対する扱いの雑さに驚くことがある。
対等を通り越して、下に見ているかのような。
もちろんお年寄りを敬うようなシーンに出会うこともあるが、それは、年長者本人の何かしらの『行い』に対するもので、ただ重ねた『年齢』(本人にはどうすることも出来ない属性)によって敬われるということは無いように思う。
私がそれに驚くのはおそらく、私自身にも儒教的観念が染み付いているからで、それは、子供のころに
『目上の方には礼儀正しく挨拶をしましょう』
といった、一見正しくて一見微笑ましい儒教の教育をそこかしこで受けてきたからなのであろう。
『目上』の定義って何さ!
そして相手の属性に関係なく誰に対しても礼儀正しくしろよ!
と、今振り返ると思うけれども。
なんなら私は、OECD男女間賃金格差が、日本と韓国がいつも最下位レベルなのは、いまだに深い儒教の影響があるからなのではないかくらいに考えている。
さて、タクシー運転手、とくに、タメ口タクシーの運転手は、年配の男性に多い。
彼らとて、儒教の概念に従って行動している。
すると、彼らには、
『女、とくに歳下の女には敬語を使わなくて良い』
あるいは、
『女、とくに歳下の女に敬語を使うことに強い抵抗を感じる』
という感覚が存在するのではないか。
一方で、客の側には、
『同じ対価を払っているのだから対応に差をつけないで欲しい』
という感覚が(少なくとも私には)存在する。
そこにねじれが発生し、時に客が不愉快な思いをしたり、時に客から『タメ口返し』をされて運転手側が不愉快な思いをしたりするわけである。
看護師や保健師にタメ口をきかれたとする。
これはあまり気にならない。
おばちゃん運転手にタメ口をきかれたとする。
これもあまり気にならない。
むしろ親しみを感じる場合すらある。
それは、背後に儒教っぽさを感じないからかなと思う。
駅員にタメ口を使われる、あるいは見下されたようなひどい接客をされることがよくある。
私鉄は無いが、私鉄以外ではよくある。
特に制服を着た女子高生などは、ほんとうにひどい対応をされる。
これには割とイライラする。
これは、背後に儒教っぽさを感じるからだろうと思う。
あなた、スーツ着たサラリーマンにも同じ対応をするのかよ、と。
余談であるが、女子が制服を着ているというだけで、ひどい対応をされるわ、痴漢に狙われるわで、学校生活における危険度、不快度が格段にUPするので、制服は自由選択制にした方が良いのではないかと思う。
少なくとも電車通学が発生する学校では。
地味で大人しそうな格好ほど痴漢に狙われる。
私は、娘が痴漢に遭わないためなら、娘にパンクファッションでの通学を勧めることも辞さない構えである。
考えてみたら、事務服であれ、店員の制服であれ、女性が何か『制服』を着ていると、とたんに人格の無い見下し対象ポジションに収まるような気がする。
『タメ口で話していい人』ポジション、『クレームを受け止めてくれる人』ポジション、『自分に尽くしてくれる人』ポジションのような。
逆に、制服を着ているからこそ、
『今、理不尽なクレームを入れられているのは『私』ではなく『店員A』だ』
という受け流しが可能になる面もあるのかもしれない。
でも、客と店員が一市民として対等であれば、そもそも理不尽なクレームなど聞いてやる義理はないのである。
結局、誰もが、自分のモノサシに相手をおさめようとするから、相手がはみ出した時に苦しいのかな、と思う。
『女のくせに生意気だ(イライラ)』
『対等に扱ってよ(イライラ)』
のような。
私は一人で海外旅行をするのが好きだ。
海外に行くと、ものすごい解放感がある。
それは、海外にはモノサシを持って行けないからなのだろうと思う。
どんなシーンに遭遇しても、
『ふーん、この国ではこうなんだな』
で終わりである。
だがもしも海外に定住し、そこにおけるスタンダードを知ってしまったら、私はそこで新たにモノサシを作るだろう。
そして、
『アジア人だからってからかわないでよ』
などという新たなイライラに悩まされるのかも知れない。
あと、補足すると私は海外に男尊女卑が存在しないとは考えていない。
場所によっては、女だからという理由で3歳で性器を切除され排尿と生理に一生苦しみ、9歳で老人と強制的に結婚させられ、異性の従兄弟と世間話をしただけでガソリンをかけられ生きたまま焼き殺されるという程度のことは知っている。
またアメリカには日本のような充実した産前産後の休養、保育の制度がなく、高学歴女性の多くが仕事を諦めていることも知っている。
別に、海外バンザイと言いたいわけではないことを補記したい。
さて、相手とのモノサシが一致せずイライラすることを防ぐには、イギリス的なクラースの感覚、あるいは、多宗教国家的な感覚が役に立つかもしれない。
つまり、同じ社会の中に、全く違う常識や習慣を持つ、複数の集団が存在する感覚である。
社会の中でそれぞれの構成員が接触し、互いのモノサシに合わない振る舞いをしてしまったとしても、
『まあ、彼らと俺らでは常識が違うんだし仕方ないか』
で済ます感覚である。
日本はここ50年ほど、良くも悪くもあらゆる面で均質で、同じ常識を持つ集団として過ごしてきたけれども、もう、『一つの常識(one common sense)』を維持するというのは、無理なのだろう。
『まあ、彼らと俺らでは常識が違うんだし仕方ないか』
これを合言葉に、ストレスなく生きて行けたらよいと思う次第である。