nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

なぜ、女も稼がなくてはならないのか

今日も今日とてバックラッシュの吹き荒れる日本である。
私は、就職氷河期の底で技術者になり、不妊治療をし、『日本死ね』の声の中で出産育児のために数年間の専業主婦時代を過ごし、在宅ワーカーとして再就職した。
従って、苛烈な労働環境で疲弊する独身者の気持ちも、専業主婦の気持ちも、キャリアワーママの気持ちも、分かるつもりである。
「夫に家事育児の半分以上を押し付けている、しかも在宅勤務者に、ワンオペワーママの気持ちが分かってたまるか」と言われてしまうかもしれないが、まあそこはご容赦いただきたい。
一つだけ、『準専業主婦』と言われるパート主婦の立場には立った事がなく、その気持ちは私にとって霧に包まれているのであるが、子育てをする女性として『もしもの今』と『もしもの未来』にパート主婦というルートが「無かった」或いは「無い」とは決して言えない。
さらに、パート主婦がパート主婦でいる動機は「子供との時間を大切にしたいから」だと言うが、これはまさしく私が通勤時間ゼロの在宅勤務を選択している理由と同じであるから、その気持ちは分かる。
一方、別の動機として「年収の壁があるから」だとも聞くが、こちらはあまり分からない。
壁を越えてもそのぶん将来の保障は上がるのではないの?と思う。

総合すると、私は様々な立場の上に立っており、常にグラグラと考えを左右させているのだとも言える。
特に、女性が子育てに重きを置くのが良いのか、経済力に重きを置くのが良いのかというのは、自分の中でも未だ答えの出ていない大きな問いである。

『私は』と、自分を主語にした場合、仕事が充実していれば、仕事に重きを置いた方が良いだろう。
そうでなければ、育児に逃げたくなるかも知れない。
苛烈な環境で働いていた期間が長ければ、物理的に両立が不可能と感じられるかも知れない。
私は妊娠出産で前職を辞めることにためらいが無かったが、再就職をしてからは、出産後も仕事を続けたいという人の気持ちがやっと分かるようになった。
やりがいがあり、ハラスメントもなく、充分に割に合うから辞めたくないのだ。

『家計は』と、一家の経済力を主語にした場合、これは働き続ける一択である。
どこのFP(ファイナンシャルプランナー)もそう言うだろう。
しかしFPは、平日の昼間に子供と過ごす孤独な時間の甘さを知らない。
なんでもない日常の、ある一瞬の子供の言葉、表情が、どんな高額な何かよりも幸せを与えてくれ、死に際に最高の瞬間として思い出すに足る記憶である事を全く考慮しない。
働かずに、換金不可能な幸せを集める事。
それはFP的にはただの『消費(浪費)』に過ぎない。
なお、その専業育児における甘さは、ワンオペ育児の過酷さと表裏一体であり、朝から朝まで果てしなく続く「お母さんあれやってー」「これやってー」「みてみてー」「5時間耐久おままごとやってー」「6時間ノンストップで絵本読み続けてー」に耐える必要があり、時に、その親子密着度の高さからトラブルを生むことがある事を付記したい。

さて、主語を『子供は』とした場合、『現在』と『未来』でvalueは異なるだろう。
現在の子供(乳幼児)にとって、母親と常時一緒に居ること以上のvalueは存在しない。
それは、いくら時代が変わっても、変える事が出来ないと感じる。
これはあくまで個人の感想であり、異論は当然あるだろうと思うが。
強いて、母子を離すことの子供への利点を挙げるならば、虐待などのマルトリートメントを避けることが出来る点と、母親の育児負荷が下がることで子供に優しく接する事ができる点か。
しかしそれは児童館や子育て支援センターに行くことで、より子供に負荷を掛けない形で実現可能でもある。

よく言われる、早期に保育所に預ける事で社会性とリーダーシップが養われる云々かんぬんは、気にしないで良いのではないだろうか。
私も専業主婦時代はそういう言説を気にした事があるが、今思えば全く不要な煩いであった。
そういえばエビデンスも見た事がない。
育児中の女性を経済活動に駆り立てるためのプロパガンダ、あるいは駆り立てられてしまったワーママの罪悪感を払拭するために生み出された言説であった疑いを拭い去れない。

私は、昭和の鍵っ子であった。
誰もいない家に帰る寂しさ。
熱が出て小学校を早退する時、他の子は母親や祖父母が迎えに来るのに、自分だけは迎えがなく一人で歩いて帰る時のみじめさ。
39度の熱が出て吐き気でのたうち回っているのに家に誰も居ない時の恐怖は、今でも覚えている。
たまに、何かの都合で帰宅時に家に母親が居ると、とても安心でき、嬉しかったものだ。

しかし、未来(青年期)の子供にとっては、両親の経済力こそが重要になってくる。
そして大きくなった子供にとって、人間関係の中心は同年代の友達となり、親はもう遊び相手ではなくなる。
さらに、自分の人生を確立しようとしている青年期以降の子供にとっては、親が子の世話や子の立身出世だけを生きがいにして張り付いてくるのはなかなか恐ろしいものがある。

色々思うところがあるが、私は敢えて、女も稼がなくてはならないという結論を出したい。
何故か。
経済力は、自己決定権と、家族(子供)に対する決定権を支えてくれるものであるからだ。
いかに無償のケアワークを頑張っても、最終的に何かを決める権利を持つのは、残念ながら経済力のある者だ。
経済力があれば、家族の誰かが理不尽な決定をしようとした時に、「ほな好きにさせてもらいますわ」と言える。
家族内だけではなく、世の中の理不尽全てに対抗する可能性を持つ術が、経済力である。
『子供に対する決定権』というのは、別に子供に自分の考えを強いるということではなくて、子供の意思(進路)を母親自身の稼ぎで支える事ができるという意味だ。
また、自分自身の稼ぎがない場合、世の中から舐められ見下され、家族から意図しない無償のケアワーク(親族の介護など)を押し付けられても文句を言う資格すら無い。
「だって、ケアワークを担うのがお前の存在意義じゃん」
と言われてお仕舞いだ。
お金で他者の労働力を買うことすら自分では出来ない。
ケアワーク労働力として買われているのは、自分の側であるからだ。
また、家庭内で育児や介護などのケアワークに無償で従事しているからと言って、それが『仕事』と見なされ、世の中から尊敬されたり一人前の社会構成員として敬意を持って扱われたりすることは、残念ながら無い。
どんなに立派な学歴やキャリアを持っていても、どんなに無償のケアワークを頑張っていても、職業欄に『主婦』と書いた瞬間、『無能』『無収入あるいは低収入』『半人前』といった無意識のレッテルを貼られる事となる。
悔しい事であるけれども。

家族のために心地よい環境をいくら整えようと、子供を立派に育て上げようと、それが社会の中で評価されることはない。
たとえ職業欄に書かずとも、子供を連れているだけで、『主婦』『無収入あるいは低収入』『社会構成員として半人前』というレッテルがベタベタと貼られ、見知らぬ人からタメ口を使われるのだ。
逆に、良い歳になって子供を産まないでいてもやっぱり『社会構成員として半人前』と見なされるのだから、無理ゲー度高いなーと思う。

試しに『主婦でも』というワードでネット検索してみると良い。
関連ワードに何が出るか。
いかに『主婦』が世の中から、金と能力と社会的信用が無いと認識されているかが分かるだろう。
2014年には、『主婦2.0』という主婦復権の流れがあったが、いつの間にか消え去った。
主婦がリスペクトを得る流れが来る事は、今後無いだろう。
私は予想する。
今後20年で『主婦』という言葉は差別的な意味合いを含む蔑称となり、メディアで使えなくなるだろう(おじさん、おばさん、おっさん辺りの言葉も禁止用語になるだろう。マイナスのレッテルが貼られすぎてしまったからだ)。
『主婦でも』というワードが世に溢れている事自体が既に侮蔑的である。
ある漫画で、主人公の師匠である中年女性が半端なく強く、敵から「何者なんだ」と問われて「主婦だ!」と答えるシーンがあった。
あれは、主婦が肉体的および社会的に非力であるという前提に立っており、その前提を覆す『主婦なのに強い』『主婦なのに堂々と名乗っている』というギャップの痛快さを楽しむシーンであると私は解釈した。

案外、この無意識の偏見は、私の中にも存在するのかも知れない。

そしてまさに私の中の偏見こそが、『主婦は見下されている』と思う原因の一端であるのかもしれない。
休日に公園に行った際、子供を連れた父親を見ると、
「この人は平日はサラリーマンで、『主たる家計の維持者』として働いているのだろうな」
と思ってしまう。

一方、子供を連れた母親を見ても、
「この人は平日はパイロットや鳶職人やサーバー構築者として『主たる家計の維持』をしているのだろうな」
とはあまり思わない自分に気づく。
母親だって、パイロットや鳶職人やサーバー構築者として主たる家計の維持を担っているかもしれないのに。
あろうことか、小さい子供を連れた母親を見ると、専業主婦かパート主婦である可能性をまず考えてしまうのだ。
偏見は私の中にこそ存在するのだ。
自分は他者からのそのような偏見から逃れたいと思っているにも関わらず、である。

一方で、子供からのみ尊敬や愛を得られればそれで良いという考えもある。
私も、専業主婦として子育てのみしていた頃はそう思っていた。
しかし、それだけで残りの長い人生を過ごすのは、きついだろうと思う。
マズローの欲求五段階説というものがある。
承認欲求や自己実現欲求が社会の中で適切に満たされていないと、思わぬ愚行に走ってしまうかも知れない。
仕事という、健全な形で承認欲求や自己実現欲求が満たされることは重要である。

昔、『くたばれ!専業主婦』という本が話題になったことがある。
私は、あの本がブームになった事で、日本の少子化は加速したと考えている。
子供を産み育てるにあたっては、間違いなく主婦という存在を作ってそのリソースを貼り付けた方が便利だったからだ。
会社にお茶汲みOLという余剰人員がいる事で、なぜだか分からないけど会社がうまく回る事があるように、地域に主婦という余剰人員がいる事で、なんとなく地域の安全が計られる。
そういう事もある。
しかし、たとえあの本が無かったとしても、世界的に進む主婦軽視の流れから逃れることは出来なかったであろう。
お茶汲みOLが、組織の欠くべからざる構成員として尊敬されるような事が決して無いままに、やがて駆逐されていったように。
仮に今、
『育児と介護のため専業主婦を増やそう!
 無償でのケアワークに集中させてあげよう!』
と叫んでも、それは難しいだろう。
その構図は限りなく奴隷制に似ているからだ。
無償のケアワークをいくら頑張っても、個人の資産は形成されない。
配偶者控除による年収の壁は早晩無くなりそうである。
同じ収入であっても配偶者の有無や配偶者の雇用形態により手取りが変わることに多くの人が疑問を感じているからだという。
そうなるとますます、無償でケアワークを担うことはリスクでしかなくなる。
この問題はしかし、本人の収入や配偶者の有無に関わらず、介護や育児などの無償のケアワークに時間的あるいは金銭的リソースを割いている場合に適用されるような、新しい形の控除に変われば、多くの人が納得出来るのではないかと思う。

経済が成長する中で、出産と育児が義務ではなく個人の趣味となり、また、儒教からの離脱を試み介護を子の責任から社会の責任に置き換えていく過程の中で、無償のケアワークへの敬意は消え去った。
ケアワークを担わない自由を得たのと引き換えに。
出産育児が義務ではなく個人の趣味となったいま、それが社会的に評価される事はもはや無い。
老親を経済的に養うというマインドも消滅した今、いつまでも無収入あるいは低収入のままで無償のケアワークに従事していたら、待っているのは老後の貧困である。
無償のケアワークに従事してきた主婦が老後貧困に陥ったとして、世間から投げかけられるのはこんな言葉だろう。

どうして働いてこなかったの?
老後資金貯めとけば良かったのに。
厚生年金入ってなかったの?
怠けてきたツケだね。

先進諸国にとって、子供を産み育てることに対するインセンティブは、いまだかつてない程に低い。

・児童労働力
・老後の世話
・周囲のプレッシャーからの解放(かつては子供を産まないとコミュニティに居られなかった)
・集団の維持

これらのリターンはもう、子供を産み育てることに期待してはいけないものとなった。
『純粋な愛』という動機でしか、子供を設けてはいけないこととなった。
本当は、子供を産む事で『子供からの無償の愛』『それに伴う掛け値なしの幸せ』というビッグボーナスが得られるのであるが、その存在や価値に気づくのは残念ながら産んだ後であるかもしれない。
これらのボーナスは、妊娠前には気づきにくい。
世の客観的な価値基準はお金と時間である。
メディアを見回すと子育てはその両方が理不尽にぶっ飛んで行くという情報ばかりが目に付く。
『子供との生活に感じる幸せ』などといった主観的な価値基準は、定量的評価がしにくくメディアにはあまり出てこない。
その上、若い頃は他人の子供など見ても可愛いなどとは全く感じられないものだ。
子供を見て「可愛い」と思う子供がいるだろうか。
自分がまだ子供であるのに。
20代の若者に、子供を持ちたくないという人が多いと言うが、当たり前であるように思う。
しかも結婚出産したらかなりの確率で『主婦』というレッテルを貼られ半人前の存在に落とされるというのだ。
これを恐れる人が居るのもむべなるかな。

これらを踏まえた上で私は言いたい。
子供を応援したいのであればこそ、母親自身が強い経済力とそれに裏打ちされた発言権および決定権を持たなくてはならないのだと。

結婚すると自由が無くなるという。
確かに、子供が乳幼児のうちはそうなのであろうが、それ以外のフェーズにおいては、男女それぞれにとって自由の無さは性的分業に起因している気がする。
大黒柱が二本あり、家事育児や強制ボランティア(PTA)を夫婦間でシェア出来ていれば、「私がいなくては夫は家事育児が出来ない。だから私は一人で旅行にも行けない」だの、「俺の稼ぎが減れば一家は食い詰める。だからブラックでも辞めることは出来ない」などと思う必要はない。
夫だろうが妻だろうが、相互に調整の上、旅行でも転職でも起業でも何でもすれば良いのだ。
妻が、夫と同等かそれ以上に稼いでいれば、『嫁として正月にお節料理を作りに来い。セクハラパワハラは我慢しろ』などと言われることはないだろう。
夫が、妻と同等かそれ以上に家事育児に参画していれば、専業主夫やパート主夫、補助的な家計貢献をする兼業主夫になる自由が生まれる。
そうすれば婚活市場における男性の価値は経済力と切り離される。
ルックスや優しさ、トーク力、家事能力など、色々な切り口が評価されるようになるだろう。
役割を固定化しているから、自由が無いのだ。

しかし、専業主婦であった自分としては、一生に一度の乳幼児期の子育てを全力で味わいたい人がいる事は理解するし、尊重したい。
私は乳幼児期に育児にフルコミット出来て本当に良かったと感じている。
本音を言うとあと3年は無職のまま育児にフルコミットしたかったが、正社員での再就職、ひいては老後に向けた資産形成が難しくなると考え、途中で切り上げた。
親の老後の貧困回避のために、可愛い盛りの子供に「今忙しいから後でね」を連発するのは心苦しいことであるが、再就職を延ばせば延ばすほど条件が悪くなり、老後貧困に陥り子供に負担を掛けてしまう可能性が上がるので仕方ない。
将来子供達が、私立美大に行きたいと言っても、院に行きたいと言っても、海外留学したいと言っても、借金を負わせることなく送り出してやりたい。
そして老後は、子供達に負担を掛けることなく死にたい。

育児か仕事か、どちらかしか選べないのであれば、そのルールこそがおかしいのだ。
育児のために仕事を辞めたら正社員に戻る事がめちゃくちゃ難しいルール。
正社員でいるためには子供との時間を尋常じゃないレベルで減らさないといけないルール。
乳児が母乳を直飲みできず、その母親が会社のトイレで搾乳するも搾乳しきれず乳腺炎になる世界。
父親が保育園のお迎えのために早退すると出世に影響する世界。

専業主婦(主夫)、パート主婦(主夫)、バリキャリ、独身者、自営業者、男、女、高齢者、若者。
様々な、立場の違う人たちが、お互いを攻撃し合うことは、虚しい。
皆、ルールに従い何かを選ぶ代わりに何かを失って不安で不満なのだ。

数の子供を産み、末っ子が就学するまで無職でいても、その後には、学歴やキャリアを生かせて在宅勤務などの柔軟な働き方が可能な正規職に多くの人が再就職出来る、そんな世の中を夢想する。
育児だけではなく、介護や、放浪や、再学習などの為のキャリアブレイクが可能な世界。
誰でもすぐに雇われ、何かあれば割とすぐに解雇される。
でもセーフティネットが充実し、何となく大丈夫な世界。
正社員として働きながらも、男も女も家族との時間をしっかり確保出来る世界。
それはきっと、ワーママだけではなく、人生をより良くしたいと願う多くの人にとって救いのある世界である筈だ。
誰もが人生のフェーズに合わせて柔軟に働き方を変えることの出来るよう、雇用の流動化が進む事を願う。

 

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