nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

子供のおもちゃ片付かない問題は、収納方法よりも、イデオロギーの対立によるところが大きい。

以前、夫の観ているバラエティ番組を横目で観ていたところ、収納アドバイザーとやらが、プラレールのレールをA4サイズのプラスチック製書類箱に入れて「これでピッタリ!」などとやっていたが、子育ての当事者からすると、「そういうことじゃないんだよ!」と叫ばざるを得ない。
レールを形ごとに分類して、留め具のついたいくつもの書類箱に入れる、または出す。
毎日、毎日、一日に何回も。
そんなことの出来る未就学児は存在しない。
この方法では、思春期くらいまで親がかりで片付けをしなくてはならない。

まず、大前提として、子供に『遊び終わり』の概念は存在しない。
起きている間中、息をするように遊ぶ。
ブロックで遊んでいる最中に、ふと目を上げるとプラレールが目に入り、それで遊び始める。
子供にとっては新たなおもちゃでの遊びの始まりは、元の遊びの終わりを意味しない。
子供に、「よし、このおもちゃでの遊びは終わりにするぞ」という瞬間は、存在しない。
だから、「このブロックはもう使い終わったの?」などと聞いても、曖昧な返事、もしくは「まだ遊ぶ」という返事しか返ってこないのだ。

次に子供は、『片付いた状態』を望んでいない。
常におもちゃが床に置いてあったほうが遊びやすいからだ。
子供は、片付けるのが面倒、難しいという以前に、おもちゃをずっと出しておきたいのだ。
だから、いくら収納方法を工夫しても、根本的な解決にはならない。
『お片付けに遊びを取り入れて、ゲーム感覚で子供と片付けましょう』という方法が、最初はうまくいっても、飽きれば続かないのはその為だ。
よくて、「片付けないと〇〇させないぞ」とか「片付けたら〇〇しようね」などの、脅迫か、裏返しの脅迫であるところのエサぶら下げ方式でしか、子供に片付けをさせることは出来ない。

これは、『部屋が片付いていた方が気持ち良い』党と、『おもちゃが出ていた方が遊びやすい』党の対立なのだ。

親が「もー!また、散らかして!」と思っているのと同様に、子供は「もー!せっかく出しておいたのに!」と思っているのだろう。

増えすぎたおもちゃを捨てることも難しい。
子供にとっておもちゃは友達であるし、現在過去未来の時間軸が存在するかも曖昧な子供にとって、『未来にそれを使用するか否か予想する』なんて、あまりにも難しすぎる。

中世キリスト教圏では、身体を洗うことは罪悪であるという考えがあった。
14年間手を洗わなかった少女がその事を表彰されたりしていたという。
そしてそのすぐ東方には、身体を清潔にする事が神の御心にかなう、という考えの宗教があった。
その二つがせめぎ合い、交互に支配されたような地域では、一方に支配されては公共の風呂が多く建ち、もう一方に支配されては風呂が打ち壊され、が繰り返されていたという。
本人達にとっては自分のイデオロギーこそが正義なのである。

我が家のリビングはさしずめ中世中部ユーラシア大陸の再現である。
風呂の建造と破壊が繰り返されるように、おもちゃの散らかりと片付けが連綿と繰り返されるのである。

冒頭に戻り断言しよう、親が何十分もかけて大量のレールを書類箱に片付けているそのすぐ後ろで、子供は早速レールを出そうとするであろうことを。

結局、子供がおもちゃを散らかさないようにするには、子供を家から追い出しておくか、スクリーン漬けにしておくしかないのだ。
それは望んだ姿だろうか。
子供に買ったおもちゃ達は、遊んで欲しくて買ったのか、それとも一つのパーツも失くさないよう、大事にしまっておくために買ったのか。

おもちゃ遊びは、いつか卒業する。
諦めが、肝心である。
……と、自分に言い聞かせる。