nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

子供の視点を失っていく

再就職をしてからというもの、子供の視点を急速に失ってしまったことを感じる。
専業主婦だった頃は、子供の欲しがりそうな物は私にも何故かキラキラとたまらなく魅力的に映っていた。
例えば、キャラクターグッズや、子供向けの雑誌や、食玩や、あらゆるおもちゃ。
そして、自由に使えるお金が今よりも少なかったゆえに、100均や、リサイクルショップや、低価格帯の子供向け衣料品店や、通販サイトを巡りそれらをお得にゲットするのが楽しくて楽しくて仕方なかった。
子供と工作をするのも楽しかった。

しかし今、勤め人としての要素が私の多くを占めてしまい、上記のような子供向けの物たちはキラキラした輝きを全く失ってしまった。
キャラクター物はどれも同じように見え、「似たような物があるからいらないか……」と思ってしまう。
安くおもちゃをゲットする喜びなどは全く無く、「物が増えて散らかるから買わないでおこう」とか、「本当に必要なら、必要な時に適正な価格で買えば良い。その方が結果的にはお得だから」などと、正論ぶった考えが湧いてきてしまう。

寂しいなぁ。
自由に使えるお金が増えたら、キラキラとした、子供向けの、不要な、下らない物を買いまくれるかと思っていた。
結果的には、下らない物はあまり買わなくなってしまい、旅行やレジャーなどの体験や、混雑や行列などの不愉快さの回避や、時短などの為にコストを掛けるようになった。
いやだなぁ、こうして大人になっていくのか。

ルールバカの頭の中

私は、正義感が強い。
遵法精神が強い。
夫曰く、「ルールバカ」だそうだ。

幼稚園バスのバス停への道の途中、単身者向けアパートがあるのだが、そこのゴミ捨て場から、毎朝ゴミが溢れて道路の真ん中近くまでハミだしていた時期があった。
住人のゴミ捨てスキルが異常に低いためだろう、分別や曜日が不完全で、回収されないゴミが山となって道路まで崩れ出していたのだ。
ゴミを避けて迂回すると、道の真ん中近くを歩かなくてはならない。
その道は、朝は制限速度違反の車が多く通る道で、子供と歩くにはただでさえ怖い道だ。
はみ出したゴミを避けて道の真ん中を歩くのは危険であるため、そのような状況になる度、そこのアパートの管理会社に電話をして、状況及び危険性を伝え、片付けて貰うようお願いしていた。
もちろんすぐには片付けて貰えないため、やむを得ず、危険をおかして道の中央近くまで迂回して歩いていた。
そのことを世間話として夫に話したところ、
「道の左側を歩けば良いのではないか」
と言われた。
なんだって!?
その発想は無かった!
なぜならその道には、路側帯が無い。
路側帯が無い道では、歩行者は右側を通行することが、道交法第10条により定められている。
だからその案は採用できない。
自分が違反をしてしまうと、事故時に過失が発生してしまう。
そう言った私に夫が授けた称号が、「ルールバカ」なのである。

私が頑なにペーパードライバーであり続ける理由も、ルールバカである事に一因があると言える。
車を運転するには、制限速度を違反する必要があると聞いたことがある。
違反しないと、流れを乱す奴として糾弾されるという。
そんな馬鹿な!
法律を守っているほうが責められるなんて!
実際、田舎で制限速度を守って車の練習をしていたら、煽られた事もある。
では一体どうしたら良いのか、一体何キロ違反したら良いのか、違反して捕まったら一体誰が責任をとってくれるのか。
そういう事が全く分からないため、運転は無理だと思ってしまう。
他の人は、何キロ違反したら良いか分かるのだろうか。

私がルールに依存するのは、そもそもが、自分が生きるにあたり人間のフリをしていて、うまく人間のフリをするために言語化されたルールが必要であるからなのかも知れない。
「これさえ守っていればあなたも善良な人間ですよ」
という保証が欲しいのだ。
言語化されたルールによらずとも人間としての生活を送れる人は、道路の右側にゴミがはみ出ていたら左側を歩き、車を運転する時には何キロ違反すれば良いか分かるのだろうか。
なんかこんな事を書いているとにわかに厨二病的な色彩を帯びてくるのであるが、不惑にもなって真剣に困惑する日々である。

あーあ、自動運転車ばかりが路上を走り、全員が制限速度を守るために渋滞の発生が抑えられ、誰もがスムーズに目的地へ到着する、そんな時代が早く来ないかな。

 

 

 

 

ディケンズのクリスマスキャロルが令和の私にぶっ刺さるこれだけの理由

私の育った実家では、食費と交際費は安ければ安いほど良いという価値観であった。
特に貧乏というわけではなく、可処分所得は寧ろ多い方だったと思うが、そうして貯めた金を旅行や教育費に使うという価値観だったのだ。
過度にピューリタン的な価値観だったのだと思う。
私はそれに全く疑問を抱かず大人になってしまい、その、食費と交際費をあまりにも軽んじた価値観により恥をかいたことも多かった。
今、私は結婚し、食費と交際費はあまり削りすぎても良くないという事を学んだ。

そんな実家の、とある身内の、
「SMSは一通3円もかかるから使うな」
「会社の飲み会は一回3・4千円もかかる、コロナで飲み会が無くなって本当によかった、家で食べれば十分の一で済むのに」
という言葉を聞いた時、私の頭に咄嗟に浮かんだのは、
「うわー!
 スクルージおじさんみたい!」
であった。

スクルージおじさんはディケンズの小説、クリスマスキャロルに出てくる老人である。
事業が成功して金持ちであるが、とにかくケチで、人との交流を嫌い、自分の為にとにかく金を貯めるマンと化した人物だ。

改めて本作を振り返ってみると、令和という時代や、私という個人にぶっ刺さる記述が多くてびびる。

社会背景について。
クリスマスキャロルの時代は、産業構造が変化し、経済格差が広がっている。
現代は、やはり産業が高度化し経済格差が拡大している。

主人公の性格について。
スクルージおじさんは、人との繋がりを忌避し、経済的な価値観を最優先する。
現代人もまた、貧しい家庭持ち人生を歩むよりは豊かな独身人生を歩むことを選ぶ。
そして、地域コミュニティの煩わしさに対する忌避感が蔓延し、それによって地域コミュニティの崩壊が起こっている。

スクルージおじさんは、青年時代は貧しく、後に成功した。
今は人との交流を避け、ひたすら金を貯める。
同様に私は、就職氷河期で辛酸をなめ、出産育児後の再就職で逆転。
一生に一度しかない子供達との幸せな時間をかなぐり捨てて資産増に励む。

スクルージおじさんは言う。
人との交流など無駄無駄無駄無駄ァ!
現代人もまた、言う。
会社の飲み会など無駄無駄無駄無駄ァ!

私は、会社の飲み会は色々な人と話せて勉強にもなるので寧ろ好きなのだが、それが苦手だ無駄だと思う人の気持ちは分からないこともない。

色々な側面から、自らや社会を重ね合わせて考えることができる作品は名作である。

私もこの本から学ぶべきことは多いが、令和を生きる多くの孤独な現代人は、既婚・未婚・子持ち・子なしを問わず、皆、この本がぶっ刺さってしまうんではないかなぁと思う次第である。

共感をバカにする人達

信じ難いものを見た。
あるネットニュースで、海外の強制収容所の様子を伝える博物館を見学した方のツィートが紹介されていた。
その方は、殺された方々の悲惨な運命に思いを寄せ、涙した事を書いていらした。
それに対し、ネットニュースのコメント欄は、以下の様なコメントが多く見られた。

・彼らも歴史上悪い事をしてきたのだから殺されて当然
・虐殺は嘘
・他の国も悪い事をしてきた(している)
・ポエムを読まされて不愉快

などなど、目も当てられないコメントが溢れていた。
えっ!
信じられない、本気でこう思っているの?

ツィートの主は、自分たちと同じように日常の生活を営んでいた人間が、ある日、家族と引き離され殺されることの悲劇性を嘆き、彼らに心を寄せているだけだ。
なのに何故、国や集団同士の政治がどうとかいう話になるのだ?
個人と集団を混同していないか?
国や人種を、ただ一つの意思を持つ集団だと勘違いしていないか?

地球上のあらゆる国や集団のなかで、過去、他集団への侵略を一切行わなかったものは無いだろう。
だが、仮にある集団が過去に何かをしていたとして、その集団に今産まれた赤子や幼児は、殺されて当然の存在か?
その赤子や親自身が何かしたのか?
私はそうは思わない。

「殺された人々に同情して涙しました」という書き込みが、非難される理由が全く分からない。

何かと、共感という物がバカにされがちであるように思う。
しかし、人類が暴力や暴言を乗り越えるために必要なのは、最終的には共感なのではないか。
自分以外の誰かの立場に、自分を置き換えて考える。
他者の感情を想像し、感情に寄り添う。
『殴られたら痛いだろう』と我が身に置き換えて想像する。
思えば、言葉をろくに話せない子供を育てるのに必要なスキルこそ、想像と共感ではないか。
共感こそが、人間が進化の過程で獲得した安全な繁殖への鍵なのではないか。

共感をバカにして切り捨てる社会は、やがて、子を産み育てることを止めるだろう。

算数と暮らしの思い出

ケーキ割り勘

11歳の頃の思い出がある。
クラスの友達4人と私、合計5人でケーキを作ることになった。
一人 ¥500 ずつ持ち寄り、皆で材料を買いにスーパーマーケットへ行った。
材料費は合計で ¥800 であった。
レジで、A子とB子がお金を出し購入した。
その後、清算をすることになった。
私は、A,Bの残りの ¥200 と、他の3人の ¥500*3 を出し合い、合計を5で割って分け合えば良いと言った。
各人、手元に ¥340 が残ると言うわけである。
しかし、私以外の4人のメンバーは納得しなかった。
曰く、
「A,Bのお金はもう手元に無いのであるから、他のメンバーより精算額を多く受け取らなくてはならない。
 他のメンバーは、一度お金が手元を離れるとは言え、お店に払ったわけではなくすぐに戻るのであるから、A,Bより少なく受け取るべきだ。」
と。
まるで宇宙人と話しているようであった。
私が
「じゃあどうやって精算すれば良いと思うのか具体的に教えてよ」
と言っても、彼女たち自身が式とその根拠を示す事はなかった。
彼女たちはただ、感情でしか反発していなかった。
私とて11歳の語彙力を駆使して必死に彼女らを説得したのであるが、納得できる結果に終わらなかったという記憶がある。
4対1である。
謎の感情論と数の力で押し負けてしまった。
今、大人としての語彙力をもってすれば、彼女らを説得出来るのであろうか。
何となくであるが、出来ないような気がする。

極端な例であるが、漫画などで、ガリ勉キャラが不良を論破して不良が逃げていくという描写があるが、あれは幻想なのではないか。
論破というのは、相手が自分の言葉を理解出来るという前提が不可欠である。
感情のままに暴力をふるう人々は、多くの場合語彙力に乏しく、言葉が通じないので、まともな会話が成り立たない。
イヤイヤ期で癇癪を起こす子供に理屈が通用しないのと同じである。

それと同じで、いくら正しい式を提示しても、それを理解できる能力か、根絶丁寧な説明を聞く耳を相手が備えていなければ、説得は難しい。

コピーの倍率

17歳の頃の思い出がある。
高校のクラス全員で、大きなサイズの絵を作成するという課題があった。
私は下絵の担当であったので、下絵を描き、一人のクラスメイトと一緒に、高校の近くの文房具屋へコピーを取りに行った。
その際、原画よりも拡大する必要があったのであるが、コピーボタンにある『2倍』という倍率を表す数字が、面積の倍率を表しているのか、長さの倍率を表しているのかが分からなかった。
私は、文房具屋のおばちゃんに質問した。
「これは、面積が2倍になるのですか?
 それとも、辺の長さが2倍になるのですか?」
と。
おばちゃんは答えた。
「全部よ、全部。
 全部2倍になるのよ」
と。
そんなはずはない。
辺の長さが2倍になれば、面積は4倍になるのだ。
これは義務教育の領域である。
混乱し、助けを求めるように傍のクラスメイトを見遣ると、彼女は言った。

「そうだよ○子!
 長さも面積も2倍になるんだよ!
 当たり前じゃないの」

その高校は、進学校であった。
彼女とて、勉強の出来る人であった。
私などよりも遥かにテストの順位は上であった。
実際、有名私立大学へ推薦で進学した。
それなのに、なぜ……。

ゲームの価格

ハタチ前後の頃、友人達とゲームを作成した。
世の中には、ダウンロード販売代行サイトというものがあり、審査を通過し登録することで、ゲーム等デジタルコンテンツのダウンロード販売を代行してくれるのである。
1本売れる毎に、売上の中から決まった割合の手数料を取られる。
この時は、10%であった。
元々、我々にとって手元に入らなければならないある価格(仮に¥1,000 とする)が存在するので、手数料を差し引いた後の残りが ¥1,000 となるよう販売価格を算出することになったのだが、何故か、¥1,000 に ¥1,000 の10%を足すという式で計算をし始め、 ¥1,100 で売ろうと言う話の流れになったのには驚いた。
言うまでもなく、10%の手数料を引いて ¥1,000 を残すには、
X * 0.9 = 1000
X = 1000 / 0.9
X = 1111

の価格付けが必要である。
「ちょっとまって!
 その計算はおかしいよ!」
とあわてて止めて、式を提示してメンバーを一応納得させることは出来たが、リーダー含め
「私は寝不足の為あなたの言ってる事が理解出来ないので、もうそれで良いです」
というような論調であった。
なお、この当時はメルカリなどのフリマ市場は存在しないかあるいはそれほど普及しておらず、手数料の計算をそこらの学生が日常的にするような状況ではなかったことを付記する。
彼女達は、いわゆるケーキの切れないような層ではなかった。
都内の有名な私立中学やら私立高校やらを出て、立派な大学に通う、どちらかと言うと経済状態とそれに伴う教育水準の高い人たちであった。


さいごに

算数は、答えが定まっている。
世の中のあらゆる事の『正しさ』が人によって違っても、数に関する『正しさ』は、人によらない(宇宙際タイヒミュラー理論がどうとかいうような特殊な数学世界においても常に正しさが一意になるのかどうかは私は知らない)。
しかし、正しい式を提示しても、理解されない事がある。

正しい式を提示した際にそれが正しいと認められるコミュニティに属する事は、とても幸せな事なのだ。
もしあなたの属するコミュニティがそうであるならば、その環境は大事にしたほうが良い。

自転車にベルを鳴らされたことがある

私は、歩道を歩いていて自転車にベルを鳴らされたことがある。
何度もある。

まず、私は子育て中の親であり、日々、自転車を利用する。
その上で言う。
歩道は歩行者のためにある。
自転車は車両であるものの、特定の条件下で歩道を走行することは許可されている。
しかしそれはあくまで例外であり、歩道は歩道であるから歩行者が優先である。

歩道でなくとも、車両が歩行者に対して警笛を鳴らすことが許されるような状況はまず無い。
自転車は車両であり、ベルは警笛であり、警笛は、危険を避けるためややむを得ない場合や、その他、鳴らさなくてはならない場合以外は、鳴らしてはならない。
ベルを鳴らして良いのは、ブレーキが壊れている等により回避が不可能な場合である。
まずは自転車側がブレーキをかけ、自分で危険を回避しなくてはならない。
ベルを鳴らして良いのはやむを得ない場合や危険回避のためであるから、もしも、歩行者にどいて貰いたかったら、口頭でお願いするしかない(丁寧に!)。
私も子育てをしながら日常的に自転車を利用する者の一人として、歩行者にベルを鳴らす利用者のいることを残念に思う。
全員がそうではないと知ってほしく、ここに記す。

と、ここで終わっては学びが無い。

何故、この問題が人々の間に分断や憎しみを作るのか、どうしたら解決することが出来るのかを考えてみたい。

一つ仮説を立ててみる。
『受け取る側の気の持ちようで分断は回避されないか?』
である。

『アホか』という言葉がある。
あるコミュニティでは、これは侮蔑の言葉である。
口に出した瞬間、トラブル不可避である。
しかし、別のコミュニティにおいては、これは親しみの言葉であるという。

また、『イヤ』を接頭語として使うコミュニティがあるという。
近しい者に、常日頃、必ず私の言う事を否定し、そのすぐ後に肯定する事象を繋げて述べる人がいて、「なんだこの人、すごい嫌なやつだなー」と長年思っていたのである。
例えば、私が
「AはBだよね」
と話を振ると、
「イヤイヤ、AはBだよ」
と言うのだ。
だからそう言ってんじゃん、なんでいちいち否定するの?
と思っていた。
しかしよくよく話を聞いてみると、『イヤ』を肯定の意味で使っているらしい事が判明したのである。
彼は、このような場合に私がすぐに不機嫌になって会話を打ち切ることを不思議に思っていたらしい。

同じ言葉であっても、誤解を生むことがある。

私にとって、歩行中に自転車のベルを鳴らされることは最大級の侮蔑であり、宣戦布告の意味を持つ。
だから、子供を自転車に乗せた母親からベルを鳴らされた時など、
「自分の子供を守らなくてはならない状況下でよく他人にケンカを売って回れるな」
などと感心するのであるが、当人にとっては、
「通りますよ」
程度の意味なのかも知れない。
そう思えば、気持ちよく許す事が出来る……?
いや、やはり無理だ。
そこに、道交法違反という色合いが付いてしまうと、どう考えても好意的には受け取れない。
何より、『アホか』と『イヤ』の二例は人間対人間という対等な関係に於いて発生する状況であるが、自転車運転者は、走行スピードや加害可能性において歩行者よりも上の存在であるから、『車両に乗った強いやつが偉そうに交通弱者をどかす』という構図が成り立ってしまう。
自分の声で語りかけず、指先ひとつで相手をどかせると思う事自体が、人格を持った一人の人間として相手を見ていないことの現れなのだ。
よって許し難い。
この仮説は破棄する。

念の為に付記しておく。
私は上記の理由からベルを宣戦布告とみなしはするが、その売られたケンカを買う事はしない。
トラブルを避け、家族を守りたいからだ。

余談であるが、以前、手押し車を押しながら、やっとという雰囲気でよろよろと歩く、腰の曲がった高齢女性に対して、威圧的に何度もクラクションを鳴らす大きな黒い車に乗った中年女性を見たことがある。
車両に乗ると、自分が偉くなったと勘違いする人が居るのであろうか。
全員ではないだろうけども。

解決策は無いのか。
そもそも何故、道交法という共有されるべき知識を、知らないままに車両を運転する人がいるのであろうか。
酷いと、『自転車は右側通行だと数十年間思っていた』という人すら居る。
彼は、私がいくら
「自転車は左側通行だから左側を走って!
 危ないよ!」
と言っても、
「自転車と歩行者は右側通行だよ、何言ってんの?」
と右側を走り続けたのであった。

これは、司法あるいは行政の怠慢ではないか。
知能は人口に対してなだらかなグラデーションをもって分布する。
国民の誰もが、道交法にアクセスおよび理解できる能力を持っているわけではない。
福祉の支援が必要な人ほど、法や福祉の情報へアクセスおよび理解する能力を持たないのと同じように、法的知識へアクセスし理解する能力を、国民全員が持っているわけではない。
であれば、最低限の道交法の知識を持たない人が道路に出ないように、「だって知らなかったんだモン!」が発生しない仕組みを、考える必要があるのではないか。
乗用車の場合は、免許制度がある。
これとて完全に機能しているわけではなく、歩く老婆にクラクションをしつこく鳴らすような人はやはり居るわけだが、それを例外的存在として扱える程度には機能していると言えよう。
しかし、同様の仕組みを自転車に適用するのは、かなり難しい。
現在の日本における自転車保有数は約6870万台であるという。
これだけの数の利用者に対して、新たに免許を発行/管理する仕組みを今から作る?
ムリムリムリムリ!
今でさえ免許センターは逼迫しているし、これから人口が減る中で、人的リソースや金銭的コストを新たにかけて巨大な仕組みを作るのは勿体無い。

私は思う。
スマホ等からアクセス可能なEラーニングアプリによって、道交法への理解を促し、試験をパスした人には一定期間有効なトークンを発行する。
そのトークンを持った人にのみ、自転車を売ることにするのだ。
子供に関しては、親が代わりに試験を受けても良い。
子供への周知は親がするであろうから。
スマホ等を持たない人に対しては、ペーパーメディアなどの代替手段を用意する。
高齢社会には必要なことだ。

目的は、道交法の周知である。
試験の内容は簡単で良いし、答えを見ながら解いたって良い。
『歩道を歩く歩行者にベルを鳴らして良いか?』
『道路の左右どちらを走行するか?』
『車道と歩道、どちらを走行すべきか?』
『例外的に歩道を走行してよい条件は?』

中には従わない小売もいるだろうし、通販や個人輸入などの穴もあるだろう。
だがまずは、道交法を知らずに自転車に乗る人の割合を、2割程度まで抑えられればよいと思う。
「だって知らなかったんだモン」の確率を、2割にするということだ。
道交法の知識を持つ人が増えれば、残りの2割、いや、2割のうちの半分程度にも、知識が伝播するのではないか。

防犯登録時に、Eラーニングを完了したことを表すトークンIDを記入することを義務付けるという方法も考えられる。
自転車の防犯登録は、私の知る限り紙媒体により行われているが、将来的にペーパーレス化される可能性を視野に入れると、この、トークンIDと組み合わせる方法はEラーニングととても相性が良いように思う。

あるいは、CMを流すのはどうか。
国がCMを流すのは特異なことではない。
法的知識へのアクセスと理解が困難なユーザー層の好む番組に対して、啓蒙のためのCMを流すのだ。
約6870万台に対して免許を発行する仕組みを新たに作るよりは、ずっと安上がりだろう。
それは有意義な税金の使い方に思える。

それらのような仕組みがあれば、知識はより平準化され、分断と憎しみは回避されるのではないか。

 

人は不安を探す生き物

時々、不安や、怒りや、嫌な記憶に捉えられる。
具体的には、歩道で歩行者にベルを鳴らす自転車や、親の過去の言動に対する怒り、出先で遭遇した嫌な人に関する記憶、恥ずかしい失敗の記憶などだ。
そういうことを考えだすと眠れなくなる。

何故だろうかと思う。
私は今、仕事にも家庭にも概ね満足している。
現実的な悩みや不安が全く無いとは言わないが、冷静に対処すればなんとかなるだろうと思えるレベルに抑えられている。

ではなぜ、現実的な悩みが無いにも関わらず、わざわざ瑣末な悩みの種を、自分から探してしまうのだろうか。
一文の得にもならないのに。

若い頃、仕事に不満があった頃は、仕事について悩んでいた。
残業が多すぎるだとか、待遇への不満等、よくある事に悩んでいた。
あるいは、通勤電車で遭遇する傍若無人な振る舞いに神経をすり減らしていた(ギュウギュウの車内でメイクをする人等)。

専業主婦をしていた頃は、子育てや周囲との人間関係に悩んでいた。
子供の体重の増えがよくないとか、子供が寝ない食べないとか、大して知らない園ママから理由も分からず無視される等、今考えると大層どうでも良い事が心の重しになっていた。
また、どんな進路にも対応できるだけの教育資金と、子供に迷惑をかけないだけの十分な老後資金を果たして今後貯められるのかとか、正社員として再就職できるのかとか、出来たとして、フルタイムで働くことで子供達に負荷を掛けないかとか、そういう現実的な不安に囚われていた。

今、特に大きな悩みは無い筈だ。

いや、だからこそ、現実と何の関係の無い事に怒りを感じたり不安を抱いたりするのかもしれない。

不安や恐れとは、危険への備えである。
怒りとは、防御反応である。
人は、それらマイナス感情を一切感じない状況に耐えられないのではないか。
不安が無いということは、危険への備えが出来ていない、ということであり、これは、長い生物の歴史の中ではあり得ない状況である。
サバンナで何の不安もなくゴロゴロしていたら、やられる。
私の、動物としての防御意識が、何としてもどこかから不安の種や仮想敵を探し出し、『こいつは危険だ! こいつは危険だ!』と、『警戒してる感』を頑張って出しているのではなかろうか。

自分と並べるのはおこがましいが、秦の始皇帝も、全てを手に入れて尚、死への不安に取り憑かれ、不死を求めて身を滅ぼした。
始皇帝だけではない。
古今東西、多くの王や権力者たちが、栄華の中で不安に取り憑かれ、道を誤ってきた。
人はどんなに満たされても、どこからか不安を探し出してくるものなのだ。

ネット上で誰かを叩いている人たちがいる。
彼ら彼女らは、満たされていないから無関係の人を叩いているのかと思っていたが、存外、衣食住満たされて暇だから攻撃対象をわざわざ探し出しているのかも知れない。
リアルに明日をも知れない生活ならば、そんな事をしている暇は無い。

人は、不安から逃れられない。
であるならば、より安定した心を得るためには『健康的な不安』を持つしかないのかも知れない。
健康的な不安とは何か。
現実的で、対応策があり、家族等第三者の介在を必要としない自分の行動のみにより事態を改善できる不安、である。

例えば自分なら、スキルが停滞したら失業するかも知れない、という不安を設定する。
この不安は現実的で且つ、自分で行える対応策がある。
勉強である。
対応策にどれだけの実効性があるかは不明だが、具体的に行動することによって不安は和らぐだろう。

解決に家族等第三者の介在を必要とする不安設定はよくない。
なぜかと言うと、配偶者であれ子供であれ、他者を変える事は出来ないからである。
例えば、将来の不安に備えて世帯収入を増やそうとしたとして、配偶者の収入を増やすのは、自分の努力では難しい。
自分の努力で増やせるのは自分の収入だけである。
だから、『夫の収入が不満』とか、『妻が親の介護を拒む』とか、『子供の生活態度や学習態度が良くない』というのは、現実的ではあるけれども、健康的な不安とはいえないだろう。
自分の努力が介在できる余地が少な過ぎ、それでもなお介在しようとすると相手への過干渉となるからだ。

そう考えると、なんということか。
私が現実と無関係の瑣末な事をせっせせっせと掘り出してきては不安や怒りを感じているのは、どうやら、私が現状に満足してしまっていて上を目指す意識に乏しいからだと判明したではないか。
現状への満足と怠惰は人を無駄に不安にするというわけだ。

それでもなお、現実と関係ない、どうでも良いマイナス感情に囚われてしまったら、こう唱えることにしよう。
「他に考えるべき不安が無いなんて、平和なんだなぁ、私」
と。
ネットで誰かを叩きたくなる人はこう唱えると良いのではないか。
「現実で攻撃したくなる相手が身近に居ないなんて、幸せだ」
始皇帝にはこう言って欲しい。
「もう死しか怖いものがないなんてラッキー!」
歴代のロマノフ皇帝はこうだ。
「暗殺を恐れるようになるなんて俺も上り詰めたわー」
あ、ごめん、歴代のロマノフ皇帝はその不安捨てちゃダメなんだったわ。