私は、歩道を歩いていて自転車にベルを鳴らされたことがある。
何度もある。
まず、私は子育て中の親であり、日々、自転車を利用する。
その上で言う。
歩道は歩行者のためにある。
自転車は車両であるものの、特定の条件下で歩道を走行することは許可されている。
しかしそれはあくまで例外であり、歩道は歩道であるから歩行者が優先である。
歩道でなくとも、車両が歩行者に対して警笛を鳴らすことが許されるような状況はまず無い。
自転車は車両であり、ベルは警笛であり、警笛は、危険を避けるためややむを得ない場合や、その他、鳴らさなくてはならない場合以外は、鳴らしてはならない。
ベルを鳴らして良いのは、ブレーキが壊れている等により回避が不可能な場合である。
まずは自転車側がブレーキをかけ、自分で危険を回避しなくてはならない。
ベルを鳴らして良いのはやむを得ない場合や危険回避のためであるから、もしも、歩行者にどいて貰いたかったら、口頭でお願いするしかない(丁寧に!)。
私も子育てをしながら日常的に自転車を利用する者の一人として、歩行者にベルを鳴らす利用者のいることを残念に思う。
全員がそうではないと知ってほしく、ここに記す。
と、ここで終わっては学びが無い。
何故、この問題が人々の間に分断や憎しみを作るのか、どうしたら解決することが出来るのかを考えてみたい。
一つ仮説を立ててみる。
『受け取る側の気の持ちようで分断は回避されないか?』
である。
『アホか』という言葉がある。
あるコミュニティでは、これは侮蔑の言葉である。
口に出した瞬間、トラブル不可避である。
しかし、別のコミュニティにおいては、これは親しみの言葉であるという。
また、『イヤ』を接頭語として使うコミュニティがあるという。
近しい者に、常日頃、必ず私の言う事を否定し、そのすぐ後に肯定する事象を繋げて述べる人がいて、「なんだこの人、すごい嫌なやつだなー」と長年思っていたのである。
例えば、私が
「AはBだよね」
と話を振ると、
「イヤイヤ、AはBだよ」
と言うのだ。
だからそう言ってんじゃん、なんでいちいち否定するの?
と思っていた。
しかしよくよく話を聞いてみると、『イヤ』を肯定の意味で使っているらしい事が判明したのである。
彼は、このような場合に私がすぐに不機嫌になって会話を打ち切ることを不思議に思っていたらしい。
同じ言葉であっても、誤解を生むことがある。
私にとって、歩行中に自転車のベルを鳴らされることは最大級の侮蔑であり、宣戦布告の意味を持つ。
だから、子供を自転車に乗せた母親からベルを鳴らされた時など、
「自分の子供を守らなくてはならない状況下でよく他人にケンカを売って回れるな」
などと感心するのであるが、当人にとっては、
「通りますよ」
程度の意味なのかも知れない。
そう思えば、気持ちよく許す事が出来る……?
いや、やはり無理だ。
そこに、道交法違反という色合いが付いてしまうと、どう考えても好意的には受け取れない。
何より、『アホか』と『イヤ』の二例は人間対人間という対等な関係に於いて発生する状況であるが、自転車運転者は、走行スピードや加害可能性において歩行者よりも上の存在であるから、『車両に乗った強いやつが偉そうに交通弱者をどかす』という構図が成り立ってしまう。
自分の声で語りかけず、指先ひとつで相手をどかせると思う事自体が、人格を持った一人の人間として相手を見ていないことの現れなのだ。
よって許し難い。
この仮説は破棄する。
念の為に付記しておく。
私は上記の理由からベルを宣戦布告とみなしはするが、その売られたケンカを買う事はしない。
トラブルを避け、家族を守りたいからだ。
余談であるが、以前、手押し車を押しながら、やっとという雰囲気でよろよろと歩く、腰の曲がった高齢女性に対して、威圧的に何度もクラクションを鳴らす大きな黒い車に乗った中年女性を見たことがある。
車両に乗ると、自分が偉くなったと勘違いする人が居るのであろうか。
全員ではないだろうけども。
解決策は無いのか。
そもそも何故、道交法という共有されるべき知識を、知らないままに車両を運転する人がいるのであろうか。
酷いと、『自転車は右側通行だと数十年間思っていた』という人すら居る。
彼は、私がいくら
「自転車は左側通行だから左側を走って!
危ないよ!」
と言っても、
「自転車と歩行者は右側通行だよ、何言ってんの?」
と右側を走り続けたのであった。
これは、司法あるいは行政の怠慢ではないか。
知能は人口に対してなだらかなグラデーションをもって分布する。
国民の誰もが、道交法にアクセスおよび理解できる能力を持っているわけではない。
福祉の支援が必要な人ほど、法や福祉の情報へアクセスおよび理解する能力を持たないのと同じように、法的知識へアクセスし理解する能力を、国民全員が持っているわけではない。
であれば、最低限の道交法の知識を持たない人が道路に出ないように、「だって知らなかったんだモン!」が発生しない仕組みを、考える必要があるのではないか。
乗用車の場合は、免許制度がある。
これとて完全に機能しているわけではなく、歩く老婆にクラクションをしつこく鳴らすような人はやはり居るわけだが、それを例外的存在として扱える程度には機能していると言えよう。
しかし、同様の仕組みを自転車に適用するのは、かなり難しい。
現在の日本における自転車保有数は約6870万台であるという。
これだけの数の利用者に対して、新たに免許を発行/管理する仕組みを今から作る?
ムリムリムリムリ!
今でさえ免許センターは逼迫しているし、これから人口が減る中で、人的リソースや金銭的コストを新たにかけて巨大な仕組みを作るのは勿体無い。
私は思う。
スマホ等からアクセス可能なEラーニングアプリによって、道交法への理解を促し、試験をパスした人には一定期間有効なトークンを発行する。
そのトークンを持った人にのみ、自転車を売ることにするのだ。
子供に関しては、親が代わりに試験を受けても良い。
子供への周知は親がするであろうから。
スマホ等を持たない人に対しては、ペーパーメディアなどの代替手段を用意する。
高齢社会には必要なことだ。
目的は、道交法の周知である。
試験の内容は簡単で良いし、答えを見ながら解いたって良い。
『歩道を歩く歩行者にベルを鳴らして良いか?』
『道路の左右どちらを走行するか?』
『車道と歩道、どちらを走行すべきか?』
『例外的に歩道を走行してよい条件は?』
中には従わない小売もいるだろうし、通販や個人輸入などの穴もあるだろう。
だがまずは、道交法を知らずに自転車に乗る人の割合を、2割程度まで抑えられればよいと思う。
「だって知らなかったんだモン」の確率を、2割にするということだ。
道交法の知識を持つ人が増えれば、残りの2割、いや、2割のうちの半分程度にも、知識が伝播するのではないか。
防犯登録時に、Eラーニングを完了したことを表すトークンIDを記入することを義務付けるという方法も考えられる。
自転車の防犯登録は、私の知る限り紙媒体により行われているが、将来的にペーパーレス化される可能性を視野に入れると、この、トークンIDと組み合わせる方法はEラーニングととても相性が良いように思う。
あるいは、CMを流すのはどうか。
国がCMを流すのは特異なことではない。
法的知識へのアクセスと理解が困難なユーザー層の好む番組に対して、啓蒙のためのCMを流すのだ。
約6870万台に対して免許を発行する仕組みを新たに作るよりは、ずっと安上がりだろう。
それは有意義な税金の使い方に思える。
それらのような仕組みがあれば、知識はより平準化され、分断と憎しみは回避されるのではないか。