nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

私の考える少子化の原因、プラレール、そして誰にも気を使わずモノを食べるということ

世に少子化の原因と言われるものは数あれど、私の考える原因の一つは、幼児を一人で外に遊びに出す事が禁忌になったことである。

乳幼児は、無秩序である。
大人の為にデザインされた秩序立った生活とは、存在自体が相容れない。
秩序立った生活とは、各人の生命と権利が守られ、理不尽が無く、因果関係が明白で、原因があり結果に繋がり、自分で現象をコントロール出来る生活のことである。
乳幼児との生活は、それらすべてが破綻する。

夫がよく観る『孤独のグルメ』というドラマがある。
そのオープニングで、
『誰にも邪魔されず、気をつかわずモノを食べるという孤高の行為。
 この行為こそが、現代人に平等に与えられた最高の癒しといえるのである』
という語りが入る。
私はこれを聞くたびに一抹の虚しさと疎外感に苛まれていた。
乳幼児を育てる親は、そんな行為は一切許されないのである。
何年間もだ。
現代人に平等に与えられるべきものが、乳幼児を育てる親には与えられないのである。
いや、そのこと自体は自ら望んだ状態であるから別に良いのであるが、この文面を考えた方の視界に、『乳幼児を育てる親』が現代人の構成員として全く入っていない事が悔しいのである。

そう、『乳幼児を育てる者』はもはや現代人ではないのだ。
『乳幼児を育てる』という行為は、現代人と相入れない、『前時代的な行為』なのだ。

いや、これは正確性を欠いている。
『現代』を除外した時代区分は
先史 - 古代 - 中世 - 近世 - 近代
である。
前時代は『近代』にあたるが、当該文面では『自由にメシを食う権利は現代人に平等に与えられる』と書いてあるから、乳幼児を育てる親は、
先史人 - 古代人 - 中世人 - 近世人 - 近代人
のいずれかであるということだ。
従って訂正する。
『乳幼児を育てる』という行為は、現代人と相入れない、先史的あるいは古代的あるいは(以下略)な行為なのだ。

断っておくが、私は子供を愛している。
世界一可愛いと思っているし、子育ては代替不可能な喜びに満ちている。
それら、子育てに伴う正の側面は、あらゆる負の側面を補って余りあると認識している。

しかし事実として、乳幼児は秩序の破壊者である。
更に学童期を経て反抗期を迎え、親である自分が死ぬまで葛藤を産み続ける。
それらの葛藤は本来、人としての営みの主要なコンテンツであったはずであるが、現代に於いては強制イベントではないよな、と思う。
こうした負の側面しか目に入らなければ、当然、子供を持ちたいと思う者は減るのである。

ではなぜ、近代以前においては人が子を産み育てていたかというと、

・社会的圧力
・子供の存在が労働力および老後の保障であった
・周りに子供がいたので子供が身近であった
・『庶民にも人権がある』ということが発見されていなかったため、自己の人生への決定権を持てなかった
・そもそも社会全体の成熟度が低く、秩序無き状態が(消極的にであれ)受け入れられていた

などの理由による。
社会が成熟し、正しさと秩序によって埋め尽くされてしまったら、そこに、子供の立ち入る隙は無いのだ。

我々の親や祖父母の世代は、それでもまだマシだっただろう。
幼児を一人で外で遊ばせることが出来たからだ。
乳幼児育児に大変な点は多い。
寝ない、食べない、散らかす、イヤイヤする、などだ。
私が特に大変だったと感じたのは、『子供が親を自らの延長にする』ということだ。
子供は『やりたいこと』の塊だ。
だが自分ではできない。
まだ小さいからだ。

そんな時、子供は親を自らの延長とする。
「水飲みたい」
「絵本読んで」
プラレール(車両)の電池入れて」
プラレールの電池出して」
プラレールの電池入れて」
プラレールの電池出して」
プラレールの電池入れて」
プラレール分解して」
プラレール組み立てて」
プラレール分解して」
プラレール組み立てて」
「あのおもちゃ出して」
「あれがない、探して」
「これがない、探して」
「粘土やりたい」
「児童館に行きたい」
「児童館にやっぱり行きたくない」
「児童館に行きたい」
「絵本読んで」
「お店屋さんごっこの相手をして(4時間くらい)」
「お店屋さんのお客さんはこういう言動をして。それ以外のリアクションは一切許さない」

これらは一例であるが、この手の要求が1分も空けずに文字通り朝から晩まで続くのである。
歳の近い子供が複数居れば、要求も複数倍だ。
そしてそれと並行して、床一面に散らかされるおもちゃや工作の残骸を際限なく片付け続ける苦行が続く。
家事をすることは基本的に許されない。

そんな要求、突っぱねればいいとお思いだろう。
しかしもし少しでも突っぱねれば、子供はこの世の終わりのように泣き喚き続け、事態は混迷を極め、終いには児相が来るだろう。

更に。
親は手足の延長なだけではなく、脳の延長としても利用されるので、延々とワケの分からないおしゃべりを聞かされる。
それの一体なにが辛いのかとお思いになるだろうが、朝から晩までぶっ続けでワケの分からないおしゃべりを聞かされると気が狂いそうになるのである。

なお、子供が『自分の延長』として要求をぶつけてくるのは、日頃世話をする親だけである。
普段面倒を見ない親がたまに数時間程度子守をしても、何も要求されないであろう。
『自らの延長』と認識されていないからだ。
それで「楽勝だったよ」などと言われても、子供が寝ないことにも食べないことにも責任を持たず、嵐のような要求も無く、おもちゃの無限片付け作業もしないで床一面のおもちゃを放置したままなのだから、そりゃあ楽でしょうよ、というものだ。

幸い、子供が長じて理屈が通じるようになり、『親はどうやら自分とは別の人格を持つらしい』ということを子供が理解してからは、このような事はなくなった。

ほんの3年程度の期間であったが、当時はとても辛かった。
当時の子供達の写真を見ると、とても可愛らしく、この頃の子供に会いたいなぁ等と思うのだが、無限に続く要求の嵐と、虚無でしかないおもちゃの無限片付け作業、毎晩4時間ほど掛かる地獄の寝かしつけ等々を思いだすと、う〜んやっぱいいかな、となる。
しかし驚くべきことに、当時の私は、そのような、『とても辛かった』と思い出されるような過酷な状況で、毎日あふれんばかりの『幸せ』を感じていたのである。

周 燕飛氏の『貧困専業主婦』という本では、専業主婦の主観的な幸せの度合いが高いことが指摘されている。
子供とのふれあいが与えてくれるオキシトシンの分泌は、乳幼児育児に伴う過酷さを補ってあまりあるものなのかもしれない。
『評価されない反復作業による虚しさ』と『将来的なお金の不安』と『幸せ』は、全て両立し得るのである。
その後私は再就職をし、ブリリアントホワイトな企業で穏やかで賢い人たちに囲まれ、成果を正当に評価され、将来の学費と老後の費用の目処も何となく立ち、家事育児の多くを夫に任せることで、当時の不安や虚しさから解放されたが、それでもあの頃の、子供の笑顔を見るだけで発生する、脳が痺れるような多幸感というものは、得られなくなってしまったと感じる。
働き出してから、『子供と同じ視点』というものを失ったようにも思え、それに寂しさを感じることもある。
ただしこれは再就職とは関係なく、単に子供の成長に伴うものである可能性もある。
何より専業主婦として乳幼児を育てるような毎日を永遠に続けることは、私の性格的に無理であっただろう。
いずれにしても、あの、子育てに伴う『脳汁ドバドバ』的な多幸感の存在は、もっと周知されても良いように思う。

閑話休題
当時、幼児を外に一人で遊びに出し、その間に家事が出来たら、どんなに楽だったか。
私は昭和の生まれであるが、私の親など、「子供は風の子!」をスローガンに、幼児である私を執拗に外へと追い出そうとしていたものだ。

断っておくが、私は過去の礼賛者ではない。
少子化には正の側面と負の側面があるので、必ずしも食い止めるべきとは思っていないが、もし食い止める必要があるのならば、それは過去への遡りではなく、未来へ向けた新たなスキームにより実現された方が好ましいと考えている。

さて。
前述のように私はかつて専業主婦であったために昼間子供が家に居り、上記のごとき状況が発生していたが、もしこれがフルタイム共働きで昼間保育所を利用するような状況であっても、それはそれで大変だったことだろう。
帰宅後、構って構ってと甘えまくる子供との時間を確保しながら家事をこなすなど不可能な事に思われる。

近年、親の就業状況に関わらず、公的な保育サービスを利用できるようになるという話を聞く。
喜ばしい事だと思う。
その時こそ、乳幼児の親よ、誰にも邪魔されず、気をつかわずモノを食べ、『ここに現代人がいる!』と叫ぼうではないか。

 

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【解決編】なぜ最近の洗濯機の蓋には傾斜がついているのか

以前、このような記事を書いた。
縦型洗濯機の蓋に物が置けないと困るので、昔のように水平にして欲しいという記事である。

 

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最近また、洗濯機の買い換えを検討している中で、どうしてどの洗濯機も蓋に傾斜がついているのだ、とプンプンしていたのであるが、改めて色々調べていたところ、このような記事を見つけた。

yomidr.yomiuri.co.jp


そうか、化粧水のフタやタオルだけではなく、赤ちゃんを置いて落下させてしまうことがあるのですね。
それを防ぎ、赤ちゃん等を置かないようにするための傾斜なのだとしたら、納得できる。
個人的には、水平の蓋の中央に何らかの出っ張りをつければ、赤ちゃんを置くことのみを防げると思うのであるが、それでは一見意味不明なデザインになる。
傾斜をつけるということは受け入れられる。
恥ずかしながら、親業を何年も続けていながら、この可能性に思い至らなかった。
ごめんなさい。


熱せん妄にびびる

少し前、園児の息子が熱を出した。

夜、息子を寝かせている部屋から大きな泣き声がしたので赴くと、

 

「怒った顔がある!

 こわい!

 ほら、あそこ!」

 

と、何も無い空中を指差す。

何も無いよとなだめても、

 

「そこ!

 お母さん、ちゃんと見て!

 ほら、そこに知らない人の顔がある!

 怒った顔がどんどんぶつかってくる!」

 

と怯えて泣きじゃくる。

 

これが噂に聞くやつかと合点し、それは熱せん妄といって、熱のせいでそこに存在しないものが見えるのだと息子に説明し、だから私には見えないのだごめんね、となだめた。

 

しばらくして息子は落ち着いたが、これ、分かっていてもなかなかに怖いものがあるな、と思った。

『怒った顔』というチョイスがなかなかにくい。

一時的に、自分がジャパニーズホラーの主人公になったかのような戦慄を味わえたではないか。

昔の人がこれに遭遇したら、そりゃあ、祈祷師を呼びますわ。

祝詞と経と聖句を唱えながら半狂乱でシャクティパットをしますわ。

 

思えば、小学生の娘も昔、熱を出して

「そこに魚がいる!

 こわいよー!」

と幻を見て泣いたものだ。

 

子供が熱せん妄で混乱し窓を開けて飛び出すこともあると聞く。

子供が発熱している時は、戸締まりを厳にしたいと気持ちを新たにした。

 

家庭科のA先生のこと

高校時代の家庭科の教師に、A先生という方がいらした。

長い黒髪にパーマを掛け、メイクもちょっと華やかな、しかし落ち着いた物言いをする先生であった。

ある日、調理実習中、私は大きなすり鉢を落として割ってしまった。

私は当然怒られることを覚悟して、先生にあやまりにいった。

しかし先生は、

 

「物が壊れるのは当たり前です。

 わざと割ったわけではないでしょう?

 それより怪我は無かった?」

 

と、非常に冷静におっしゃった。

 

私は驚いた。

 

いまでこそ、無意味に怒ることは逆効果、というような各種教育理論が広まっているが、当時はそんな論調は無かったように思う。

 

「怒るのは奇異で未熟でみっともないこと」

 

マレーシアなどではそう言われると本で読んだことがある。

私が今勤めている多国籍な職場では、怒る人は見たことがない。

人間なので稀に誰かがミスをすることもあるが、特段だれも怒るでもなく、冷静にリカバーする。

土下座をする人も、椅子を蹴り飛ばして激昂する人もいない。

なので、ミスを隠す必要もない。

何より、クリティカルなミスは起こらない様な仕組みがあるのだと思う。

書いてて気づいたが、そもそもあまり「ミス」の概念がない。

綺麗事のようだが、「うまく行かない方法を見つけたね、今見つかって良かった」というような扱いであるように思う。

今の職場でもし激昂する人がいたら、その人自身の評判と立場が危うくなるように思う。

 

そういえば、大学時代に勉強したデザイン学では、『人はミスをする生き物である。だからそれをデザインによって防ぐのだ』と散々教えられたものだ。

 

私は、朝、娘に怒ってしまった。

散々、前日までに持ち物を揃えなさいと言ったのに、

 

「赤白帽がない、失くしたようだ」

 

と出発の時間になってから言い出したからだ。

前日までに言ってくれれば買えたのに。

 

「だから前日までに持ち物を揃えてといつも言っているでしょう」

 

と、怒鳴りこそしないものの、しつこく何度も言ってしまった。

 

しかし、よく考えたら、娘が忘れ物をしたからと言って、私に一体、何の影響があると言うのだ。

困るのは娘だ。

私が怒る筋合いはない。

娘は、学校で困り、さらに私に怒られ、ダブルで凹むこととなる。

良いことは特にない。

こんなことが続けば、娘は私に困りごとを相談しなくなり、ミスを隠すようになるだろう。

 

なぜ私は怒ったのであろう。

もしかしたら私は、娘が忘れ物をすることで、私の評価が下がるとでも思っているのではないだろうか。

 

うわー、最低だな!

 

私は常々、子供の成果を自分の成果だと思う親にだけはなるまいと考えているが、子供の失敗を親の失敗だと思うのもまた、同じことではないか!

 

子供は子供で、私は私だ。

 

私はただ、人間はミスをするものであることを認識し、精々、子供がミスをしにくい、リカバーしやすい仕組みの構築に腐心すれば良いだけではないか。

 

娘が帰ったら謝ろうと思う。

娘と自分を同一視しかけた自らの愚かさを。

 

 

 

見知らぬ他人に話しかけることが出来ますか?

夏の盛り、遊園地のプールに行ったのである。

更衣室の狭い通路に、行列が出来ていた。

そこに、ベビーカーを押した女性が、更衣室から出てきた。

狭い通路では、中高生くらいの二人組が、おしゃべりに夢中になっていた。

そのせいで狭い通路は、ベビーカーが通れるほどの隙間はなくなっていた。

そこでベビーカーを押した女性は、「通ります」とでも言うのかと思ったら、一瞬困ったような顔をして、ベビーカーのタイヤを中高生のうち一人の足に押し当てた。

軽くぶつけたと言っても良い。

中高生は無言でどいた。

誰一人、「すみません」や「ありがとうございます」というでもなく。

終始双方、お互いに対して無言であった。

 

満員電車から降りる時。

「すみません、降ります」

と言う代わりに、ぐいぐいと身体で人を押し除けようとする人々。

 

自転車に乗って歩道を走っていて、前の歩行者を退かすためにベルを鳴らす人々。

 

対話や交渉をすっとばし、いきなりレジや電車の中で怒り出す人々。

 

見知らぬ人と対話や交渉が出来ず、いきなり怒りや肉体言語や睨みつけなどの挙に出る人々が、社会には多く存在するように思う。

 

私は、自分には発達障害の傾向があるのではないかと疑っているが、文化も常識も異なるかも知れない他者に『空気を読む』ことや『不文律』を要求した挙句に対話をすっ飛ばして実力行使をしてくる事が「一般社会における通常のコミュニケーション」なのだとしたら、コミュニケーション能力とは一体なんなのだろうかと思う。

つまり、私の目には、マジョリティである定型発達さん達の作り上げたこの社会における他者との関わり方こそが、ひどくコミュニケーションレベルの低い状態に見えるのである。

 

この、社会におけるコミュニケーションの欠如は、一体どこから来るのだろうか。

 

一つには、このような問題を論じる時によく引用される、『農耕社会と狩猟社会の違い』というファクターがあるかも知れない。

曰く、狩猟社会では、常識や社会習慣の異なる外部の人間、つまりヨソモノと接する機会が多いので、自然と、言語ベースでの対話や交渉で初対面の人間と会話する文化が醸成された。

一方、農耕社会では閉じられた『ムラ』で生活が完結しており、明文化されていないルール、つまり不文律や『空気を読む』能力により社会が回っていると。

 

ほんとかな?

と思う。

日本、特に地方に農耕民族やムラ社会の特徴が強く出ていることは間違いないが、他国の多くも農耕により発展してきたではないか。

しかし、何のデータも無い実感であるが、確かに日本人は、見知らぬ他者に声を掛けることを忌避する感覚が特に強いように思う。

周りを海に囲まれて、他民族との関わりが少なかったから?

 

そのヒントは、もしかしたら公園に無いだろうか。

 

小さい子供を近所の公園に連れていくと、例えば砂場などで、子供が他の子のおもちゃに興味を持ってしまうことがある。

そんな時、親たちは、必死でこう言う。

「それは他の子のだから、触っちゃだめよ。

 ほら、あっちに面白そうな物があるよ、行ってみよう!」

そうして、自分の子供が他の子と関わらないように必死で引き離すのである。

その根底には、「知らない子と関わらせてトラブルになってはいけない」という意識がある。

言葉をうまく使えない幼児は、ともすればすぐにトラブルになる。

「貸して」「貸さない」「取った」「取られた」が、すぐに発生する。

親たちはそんな時、子供が子供同士で解決する事は待たず、トラブルの芽を摘む。

なぜなら、見知らぬ相手の親がどのようなスタンスで子育てをしているか分からないので、怖いので関わりたくないのだろう。

かくして子供達は、

「かーしーてー」

「あーそーぼー」

「入ーれーてー」

も学ぶことなく、

公園という見知らぬ他者の居る空間で友達を作る機会を得ることもなく、

『見知らぬ人には絶対話しかけない』という行動が育まれていく。

 

言葉という緩衝材がないままに、お互いを際限なく誤解し、憎しみを募らせていく。

美しい国、日本。

 

幼稚園のお迎えは母親が行くのがデフォなの?

我が家では、幼稚園への送りは私が、迎えは夫が担当している。
この幼稚園のルールでは、母親以外の人間が迎えに行く時は、あらかじめ園に連絡した上で、証明書を示して子を引き渡してもらう事になっている。
毎日毎日、「今日は夫がバス停まで子供を迎えに行きます」と伝えなくてはならない。
一方母親は、連絡も証明書も無くお迎えが出来る。
なんで母親と父親で扱いが違うねんといつも思っている。

他にも、古い価値観の園であるためか、母親参観は平日に行われ、母親の料理と洗濯に伴う匂いを讃える童謡が歌われ、『お母さんの作る料理で一番好きなものは?』という子供へのアンケート結果が発表される。
私は、参観のために平日仕事を休み、「うちは夫が料理担当なんだけどな」と内心思う。

一方、父親参観は土曜日に行われ、強いパパが云々、偉いパパが云々という、家父長制とマチズモを礼賛する童謡が歌われ、『お父さんのカッコいいところは?』というアンケートの結果が発表される。
続く折り紙の授業では、男児には青色の、女児にはピンク色の折り紙が配布される。
夫は、土曜日、仕事を休む事なく参観に参加できる。

PTAの役員決めに参加しているのは、ウチ以外母親ばかりだ。
クラスのグループLINEも、母親ばかりが登録しており、絵文字満載の女子高生のような文面のメッセージが他の母親から飛んでくる。
事務連絡にも関わらず要点がまとまっていない。
おぬし、ビジネスでもそんなメール書くんか。
そんな女子高生的グループに入りたくなくて、毎年新年度を迎える度、前年度のクラスLINEから早々に抜け、
「夫がアサインされろ、夫がアサインされろ」
と念を送るが、どこからどう個人情報が漏れているのか、何故か毎年、夫ではなく私にクラスLINEグループへの invitation が届くのである。
超こわい。

斯様に徹頭徹尾、昭和型の働く父親と専業主婦/準専業主婦的母親といった家庭に最適化された、ジェンダーバリバリの昭和的な園なのである。
預かって貰っているのはこちらなので、その方針に文句は言わないけれども。

ある日のことだ。
夫が体調を崩していたので、私が子供をバス停まで迎えに行った。
バスに乗った先生は、子供を引渡しながら、笑顔で
「間に合ったんですね!」
と言った。
私は、突然の言葉に意味がわからなくて
「え?え?」
と挙動不審になってしまった。
間に合ったって、一体、誰が、何に?
先生はもう一度、
「朝、旦那さんがお迎えに来るって聞いてましたけど、間に合ったんですね!」
と言い、主語も目的語も不明な中で何も分からず何を答えていいかも分からないでいる私を置いてバスで去っていった。

後でゆっくり考えてみると、先生が仰りたかったのは、
「お母さん(私)がお迎えの時間に間に合ったんですね!」
という事なのだろうか。
しかし、私は、別にどこか家の外に働きに出ているわけではない。
お迎えの時間に間に合わないから夫にお願いしているワケではない。
私は家で仕事をしているし、特に当該時間にミーティングが入っていなければ、毎日迎えに行く事だって出来る。
同じく家で仕事をする夫が毎日迎えにいっているのは、単にそのような分担だからに過ぎない。
これが男女逆であった場合、先生は夫に
「間に合ったんですね!」
と言ったであろうか。
それとも
「お母さんに何かあったんですか?」
と言っただろうか。

件の先生は、母親と父親、どちらも迎えに行ける条件であれば、すべからく母親が迎えに来るべし、というお考えをお持ちなのだろうか。
一体どのような根拠をもとに?
そして、私ではなく夫が迎えに行っているというだけで、私が当該時間に留守であると、勝手に推測して決めないで欲しいと思う。

 

仕事で英語使う大人だけど子供向けのプリント大量メソッド塾で英語の勉強にチャレンジしてみた

私は、社会人になってから、さまざまな方法で英会話の勉強を試みてきた。

・Podcasts
・イギリスで移民向けに提供されていることが売りのPCソフト、ナントカストーン
スマホでとにかく単語を覚え続けるアプリ
・携帯ゲーム機向け英語勉強ソフト(何本も!)
・書籍
・CD

などなどだ。
上記には対人スクールが見当たらないが、これはかつて、終電や泊まりや休日出勤が当たり前で、常識的な時間に社外の人と対面することが不可能な就業形態に身を置いていた為だ。
そして当時は、オンライン英会話というものはメジャーではなかった。

なぜ英語の勉強を試みていたかというと、ひとえに収入アップのためである。
同じIT技術者でも、英語を使えるという条件を付与するだけで、大幅な待遇向上が見込める。
レイオフの恐怖が常につきまとうとしてもだ。
しかし生来の飽きっぽさと集中力の無さから、勉強開始→ハマる→飽きる→やめるを繰り返していた。
これは現在に至るまで変わらない。

私は今、念願叶ってそのような職場に転職したが、英語力はウ◯コである。
英語以外の専門性があるから辛うじて生き延びているに過ぎない。
英語には日々、苦労している。

こいつはどげんかせんといかんと思い立ち、オンライン英会話をはじめた。
英語圏に住む講師と、一日に30分ほど会話するのである。
生徒向けサイトから教材をDLし、それをベースに会話をするのだ。
ちなみに講師は英語しか話せず、英語だけでレッスンは進む。

そして開始したのであるが、やはり1ヶ月程度でやめてしまった。
割と、精神をゴリゴリと削られるのだ。
ビジネス英会話に特化したサービスであるので、『あなたの会社はどんな会社?』『会社の規模は?』『顧客は?』『どういうサービスを提供しているの?』『上司や同僚は何て名前のどんな人?』『仕事の内容は?』という会話内容がほとんどなのであるが、守秘義務に必要以上に気を使ってしまい、微妙に嘘をついたりぼかしたりする話し方をせざるを得ない。
顧客やサービスに関することなんて第三者に話せるわけがない。
すると、頭の中の答えをストレートにoutputすることができず、フラストレーションが溜まるのだ。

そしてやはり、ヒアリングに難のある自分には、英語だけで進めるレッスンはレベルが高かったのだ。

決定的だったことがある。
講師が自分に質問しろという課題があった。
教材に則って、私が講師の仕事環境について質問をするのだ。

正直に言おう。
私は、いつもは質問される側だったのが逆転したことで、
「質問するだけなら簡単ジャーン」
と、めちゃくちゃ気を抜いていたのだ。
質問と回答が終わり、講師が言う。
「じゃあ、今の私の回答内容をまとめて言ってみて」

え!
そういう後出しがあるなら先に言ってよ!
知ってたらもっと集中して聞いてたわ!

正直に言おう。
私は、ほとんど何も聞き取れなかったのだ。
もしかしたら後出しではなく先にルールを言われていたのかもしれない。
それすら聞き取れなかったのだろう。

私に聞き取れたのは、
「私の上司のサントス(仮名)は〇〇(特定の性的嗜好の人を表す言葉)です」
だけであった。
突然あった事もない人の性的嗜好を勝手にカムアウトされ、私は完全に戸惑っていた。
それ、言っても大丈夫なやつなの!?

講師が畳み掛ける。
「聞き取れた部分だけでいいから、言ってみて」
言えない……。
唯一聞き取れたのが、
「上司が〇〇(特定の性的嗜好の人を表す言葉)」
という一文だけだったなんて……。

そして私はオンライン英会話を休会した。
籍は残してあるので、いつかは戻るかもしれないが。

次にトライしたのは、とにかく大量のプリントを解かせるメソッドで有名な、子供向けの塾である。
上の子がそこで国数英を受講しており、この度、下の子も始めたいと言いだしたので、ついでに私も始めてみたのだ。
子供向けであるが、一応、大人レベルのプリントも存在しているということである。

プリントをひたすら大量に解くのはさぞ苦痛だろうと思う。
知的な刺激が乏しそうだからだ。
そんなことをする暇があったら、空想したりパソコンでゲームを作ったり本を読んだりしていた方が良いと思う。
夫の意向で通わせているが、私は、自分なら絶対嫌だと思っていた。

それでも子供に何かを強いるなら、自分もそれをやらなくてはならない。
良い機会であるので、私もそこの教室で英語を受講し始めたのだ。

しかし……。
これは、なんと言うか、『日々の業務で役立つ英語を身につけたい』という自分のニーズに合っているのか全くわからない。

受験には、向いているのであろう。
文章を読み内容に関する設問に答えること。
英語を日本語に訳すこと。
その逆。
どれも見慣れた、日本の教育現場のメソッドである。
問題を解く間、私は静かな教室でずっと黙りこくっている。
プリントには一応、音読の欄もあるので、聴き役の講師の前に出来た子供たちの列に加わるが、
「あなたはもう一定のレベルに到達しているので音読はしなくても良いです」
などと言われ、とぼとぼと席に戻りプリントとの孤独な向かい合いを再開する。
う〜ん、これは、英『会話』なのか……?

その挙げ句、
「字が汚いのでバツです」
と、そんな理由でプリントにバツを貰ってしまった。
ショック……

ワタシ シッテル
ITギジュツシャ ナゼカ ミナ ジ キタナイ
デモ フダン テデ モジカクコト ホボ ナイ
ダカラ ダレモ コマラナイ
ホワイトボード トキドキ ヨメナイ ダケ

ちくしょー!
絶対本国の人間の方が英語の文字汚いからな!(偏見)

ひたすら続く孤独な翻訳作業。
しかし文章の翻訳だけであれば、今、翻訳するための手段が山ほどあるので、別に困っていないのだ。
私が日々の仕事で困っていることは、相手の発音が聞き取れないことである。
日々の仕事でもっと身につけたいことは、自分の意見を相手に伝えることである。
日々の仕事で重視されることは、相手の話を聞きわからない点を質問することである。

自分の意見を言わないヤツや、質問しないヤツ、黙りこくっているヤツは、何もわかっていないアホと見做されるであろう。
自明な質問や的外れな質問であっても、質問しないよりはマシである。
これは別に仕事においてだけではない。
旅行先でも同じである。

それらのスキルは、この教室のプリントメソッドで身に付くのだろうか。
このプリントの山の先に、『英語を使って顧客や同僚とコミュニケーションを取りながら何か自分の専門分野の仕事をする』という未来は、果たしてあるのだろうか。

これは恐ろしい疑問である。
問題は、この教室の中だけにとどまらないからだ。
この教室のメソッドは日本の教育現場における英語教育におおむね準拠している。
その先には、受験がある。

かつて私は、このような受験メソッドに則った勉強を、6年以上も続けてきたのではなかったか。
特に落ちこぼれることなく、それらを修めた。
しかし今、実業務における私の英語力はまったくもってウ◯コである。
もう一度同じメソッドをなぞって、同じ事をやって、違う未来は現れるのか。

日本における英語教育および受験が、日本人が世界で、多様な人材とともに働くために、ほとんど効果を持たないのだとしたら。。。
いや、わかっていたのだ。
わかっていたのだが、改めてこう目の前に突きつけられるとダメージと不安が大きい。

これは教室と私の問題ではなく、日本の教育現場における英語教育と子供たちの問題である。

文章の相互翻訳ではなく、穴埋め問題でもなく。
子供に必要なのは、自分が何を好きか、毎日何に興味を持って過ごしているかを、拙くても良いから英語でとりあえず話してみることなのではないか。
あるいは、日記やちょっとしたストーリーを英語で出力することなのではないか。
自分の頭の中を、考えを、間違っても良いから英語でoutputしてみること。
これは、このプリントの山にいつか出現するのだろうか。

昔、

「俺はまだ英語がちゃんと話せないから、海外には行かない」
という友人がいた。
彼に贈った言葉がある。
「君は部屋の中で完全に滑れるようになるまで本でスケートを学習してからスケートリンクへ行くといいよ」

谷崎潤一郎の、痴人の愛という小説がある。
無学な女給、ナオミを拾った主人公が、妻にするために彼女を育成する、プリンセスメーカーみたいな話である。
男の願望って100年前も変わらないのな(これもまた偏見)。
主人公から英語を授けられたナオミは、駐留米軍なんかとも華やかに交流するのであるが、それを見た主人公は、やれ過去分詞形の使い方がおかしいだとか、現在完了形がまちがっているだとかウゼーことを散々言うのである。
しかし肝心の男は、文法ばかりに詳しくて、英語話者と話す度胸や社会性は無く、会話はサッパリなのだ。

その後、私はプリントメソッドの塾に早々に見切りをつけやめてしまった。
全く引き留められなかった。
塾側としても、
「なんでウチで英『会話』を学ぼうとしとんねん」
と思っていたのかもしれない(受講目的は話してあったので)。

そして私は今、オンライン英会話に戻り、講師が上司の性的嗜好について語るのを聞くようなエキサイティングな日々に戻るか否か、考えあぐねているのだ。