nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

厳格さと寛容さの狭間でもがく

猛省すべきことがある。

先日、子供向けの室内遊戯施設に行ったのである。
ショッピングセンターなどに併設されていて、広めのフロア内にボールプールやトランポリンなどがある、あれ系のやつである。

そこで、Aちゃんという子と知り合った。
Aちゃんはおそらく娘と同い年であり、娘・息子と意気投合し、一日中一緒に遊んでいた。
Aちゃんは良い子であった。
決して乱暴でもなく、明るく優しい子であった。

しかし、私はAちゃんに対して必要以上に温かく接することは出来なかった。
それは、Aちゃんを連れてきた父親が、終始、大人のためのリラクゼーションエリアの長椅子で寝ていたからである。

その遊戯施設は、スタッフが子供の安全を見守るというスタイルではなく、子供は保護者が見守ってくださいというスタイルである。
その旨、一日に何回もアナウンスが流れる。
実際、大抵の親は基本的にはよく自分の子をみている。
仮に下の子の相手で手一杯で上の子達を自由に遊ばせているという場合であっても、数分に一度は上の子達の状態を見にいくのが一般的という、そういう施設であった。
ラクゼーションエリアでは多くの父親が寝ているが、その間は別の保護者が子供を見守っていることが普通であると、私はそう認識していた。

滞在時間の殆どを寝て過ごし、子供を放りっぱなしにしている親を、私は初めて見た。

Aちゃんは、ずっと私と、私の子供たちと一緒にいた。
それでも、私はその事自体はそれほど嫌でもなかったのである。
私の子供たち(特に娘)は、初めて行った場所で気の合う相手を見つけ友達を作ることが上手く、こういう事は多くあったし、また、私にとっても子供達が同世代の子と楽しそうに遊んでいるのを見るのは嬉しいこと、楽なこと、有難いことでもあった。
例え、他の親たちが井戸端会議をしていて私だけが子供達を見ているような状態であっても、私は余り知らない人との井戸端会議なんかよりも子供の様子をみている方が楽しかったので、問題なかった。
なにより、私は昭和育ちであり、子供、それも小学校に上がったような子供はもう、子供だけで行動してもOKという感覚が、(表層的にはダメであると理解していても)心の底には存在する。
親だけで子供を監視し続けるのは不可能であり、お互いに子供を見合い死亡率を下げるために人類は原初の『社会』を構築し、発展させてきたのだと思っている。
その中で、自分のような『気に掛ける余裕のある』大人が他人の子を見て話し相手になったり時に注意したりするのは、むしろ良いことだと考えてすらいる。

でもその時はダメであった。
Aちゃんが
「おもちゃ失くしちゃった」
と言えば、私は
「お父さんに言ってきな」
と言った。

Aちゃんが
自動販売機にお金入れてるのにジュース買えない」
と言えば、私は
「お父さんに言ってきな」
と言った。

Aちゃんが
「転んじゃった…」
と言えば、私は
「お父さんに言ってきな」
と言った。

あー、嫌な私。
今になって後悔が押し寄せる。
これでは、世の中の全ての子供が嫌いだった10~20代の頃の自分と一緒ではないか。。。

何故そんな風になってしまったのか。
時系列を追って考えてみたのである。

Aちゃんと、娘・息子が知り合い、一緒に遊び始めてからしばらく経ったあと、一瞬、Aちゃんと娘の姿が消えた。
息子と共に探すと、二人はクラフトルームの中に居た。
クラフトルームというのは、施設内で購入したクラフトキットで工作を作るための小部屋である。
ローテーブルや工作道具などが置いてある。
二人はその中で、座って遊んでいた。
Aちゃんが誘い入れたようである。
私と息子も入り、数時間前に購入したクラフトキットを形ばかりに出しておいた。
子供達は時にうるさくもなったが、私は自分の子供達にのみ注意をした。

昔、全く別の場所で複数の子ども達の遊び相手をした時、遊び終わって皆で片付けを始めたが、ある男児が全く片付けをしなかった為注意をしたところ、
「なんで先生でも親でもない人に命令されなきゃいけないの?」
と半笑いで言われたことがある。
私は面倒くさくなり遠くでおしゃべりに興じていたその子の母親に報告した。
その母親とは信頼関係が既に出来ていたため、彼女が自分の息子を叱り、私に謝罪をしてくれたのでそれで終いとなったが、そんな経験もあり、私は見ず知らずの子供に注意をすることには慎重になっていた。

同じ行動をして遊ぶ複数の子のうち、一部の子にだけ注意をすることの難しさは、容易に想像していただくことができよう。
注意された子は「なんであの子は良いのに」となるし、注意により一時的に行動が制御できても、制御されない子が他にいればまたそちらの行動に引っ張られてしまう。

離れた位置に、孫を連れた老婆が座っていた。
彼女は、われわれの存在及び行動をよく思っていないようだった。
私はAちゃんには注意をしなかった。
更にその時、私は非常に脳が疲れており、気を抜くと倒れ込んで寝てしまいそうであったので、寝ないよう、スマホをいじっていた。
スマホの光は睡眠を妨害するからだ。
つまりその時の私は、はたら見ると、だらしなく座りスマホをいじりながら、3人もの子供を連れて、中途半端に注意したりしなかったりするという、ろくでもない親に見えていたと思われる。

そしてついに、老婆が言った。
「ここは作る場所で遊ぶ場所じゃないんだよ!」
私はそれを聞き、Aちゃんのせいで怒られたと思ってしまったのである。
何故なら、特に用もないのにクラフトルームに誘ったのはAちゃんであるから。
Aちゃんだけは、クラフトキットを持っていなかったから。
Aちゃんは誰にも注意されず奔放にしていたから。
余談であるがAちゃんは後に、「お父さんはキットを買わなくてもここで遊んでいいって言った」と語った。
私は、自分がAちゃんの保護責任者であると老婆に思われた事が嫌だった。
何故なら私はAちゃんの親ではなく、Aちゃんの行動を律する権限を持たないのだから。

その後、Aちゃんが父親のところに行くというので、ついて行った。
前述の通り、A父は寝ていた。
私はA父に聞こえるよう大きな声で
「Aちゃんのお父さんはここに居たんだね」
と言った。
この時点で私は、とばっちりで老婆に怒られたことと、Aちゃんの保護責任者だと思われたであろうことに苛立ちを覚えていた。
A父は、一瞬こちらを見た後、寝転がったままAちゃんと一言二言話し、また目を閉じ、寝た。
私はA父を仁王立ちで見下ろしており、A父は私の存在にも、私がAちゃんを見ていることも状況的に完全に気づいていたはずであるのに、A父は私を見る事もなく、完全に無視し、わざと腕で目を隠すようにして、また寝たのだ。

私が他の子を見ても良いと感じるのは、その子の親が、
「遊んでもらっちゃってすみません〜」
「いえいえ、うちの子も喜んでいるからいいんですよ〜」
のやりとりをちゃんとしてくれるからだ。
例えその日出会ったばかりであっても、そのやりとりがあれば『見ず知らずの子』ではなくなる。

それに対してA父は、挨拶どころか無視。
こんな失礼な態度を取られたら見る気は失せる。

そして前述の
「お父さんに言いな」
祭りが始まるのである。

夜が近づき、閉場7分前になっても、A父はAちゃんを迎えに来なかった。
別にAちゃんを置いて先に帰ってもよいのであるが、ここまできたらA父が私に対してどういう態度を取るのか見たかった。
そして閉場5分前。
まだ来ない。
周りのファミリーは殆ど帰宅し、さすがにそろそろ帰り支度をしなくてはならないのではないかと不審に思い、リラクゼーションエリアを見に行くと、寝ていたはずのA父の姿はなかった。
あの野郎どこ行きやがった、と思い、Aちゃんと一緒に場内を探すと、A父は土産物屋で土産を漁っていた。

我々4人は、リラクゼーションエリアの出入り口に接するエリアに居たのに、見ないふりで横を素通りしたんかコイツ!

私にはもう、A父が、子供を他人に任せている罪悪感から故意に私への接触を避けているようにしか思えなかった。

そして私はとうとうやってしまった。
A父に、ずっと子供を放って寝ているなんて非常識だ、時々は見にくるものだ、なぜ私が保護者でもないのに第三者に怒られねばならぬのか、と苦言をていしてしまったのである。
最悪なことに、私は傍にAちゃんがいることを忘れていた。

A父は、すみません、すみませんと頭を下げていた。

言ってすぐ、私は後悔し、「言い過ぎました、すみません、Aちゃんはとても良い子でした」とでも言おうかと父子の姿を探したが、もう父子は退場したらしく見えなくなっていた。

それからはずっと後悔と、ではどうすればよかったのかという自問の繰り返しである。

Aちゃんを傷つけてしまった。
とても良い子なのに。

A父が実は恐ろしい人で、恨まれてしまったらどうしよう。

A父が実は恐ろしい人で、Aちゃんが家でこの件で殴られたりしたらどうしよう。

あの時は、私は老婆の言い分は正しいと思ってしまったけれど、よくよく考えたらクラフトルームのどこにも、『キットの無い方立ち入り禁止』とは書いていないし、いつも過疎っている部屋であるから、他のエリアが混雑している状況で、そこ居るということがそんなにもいけない事だとは、実は言えないのではないか。
老婆が厳格すぎたのではないか。

専業主婦時代の私であれば、A父を許せたのではないか。
現在の自分の、
「私だって平日フルタイムで仕事をしていて眠いのに!」
という思いが、いらぬ怒りへと繋がったのではないか。
『自分だって大変だ』、『自分のほうが大変だ』などと、大変さを比較することほど愚かなことはないのに。

そもそも私は、働き始めてから、子供と同じ視線になれていないことが多いのではないか。
『働く大人の男(記号としての男)』としての視点で、子供と接してしまっていないか。

A父にはA父の事情があろう。
体調が悪かったのかもしれない。
ここに書いたのは私から見た世界であって、A父からは全く別の世界が見えていたのかも知れない。

かといって、配偶者に「家事やっておくから子供連れ出しておいて」とかなんとか言われて休日に子供を連れ出した保護者が、相手に許可なく第三者に託児し、自分は好き勝手に過ごすというような行為が私は大嫌いである。
その上、寝転んだまま私をガン無視したA父の態度を、そして、私に接する事から徹底的に逃げて土産物を買っていたA父の態度を、私は苦言なしには許せなかっただろう。

夫に話したら、
「その彼はコミュ障なのだと思う。
 同世代の女性が怖くて話しかけることが出来ない気持ちはよく想像できる」
と言っていた。
同世代の女と言ったって、親同士なのだから変に意識せず最低限のコミュニケーションくらいとれよと思う。

でももしA父が孤立無縁のシングルファザーで、体調不良にも関わらず子供の預け先が見つからず止むを得ずあのような形で休息をとっていたのだとしたら。
助けが必要な人ほど、『挨拶できない』、『人当たりが悪く失礼』、『一見助けが必要には見えない』など「助けたくなくなる」インターフェースを持つという話を読んだことがある。
しかしAちゃんの手の込んだ髪型はシングルファザーではなく余裕ある母親の技によるものに見えた。
いやそれもただの思い込みなのか?

ぐるぐる考えすぎて辛い。

怒りとは、他人を恨みながら自分で毒を飲む事だというが、真にその通りである。

思うにこれは、『厳格さのループ』なのではないか。
子供というものは、いや、世の中の全ては、厳格に正しさの中にあることは出来ない。
少しずつハミ出しあい、少しずつ許しあう。
そもそも、正しさの基準は個人や地域や時代により変化する。
老婆にとっての正しさと、A父にとっての正しさと、私にとっての正しさが、それぞれ少しずつ違っていたように。
だれも厳格に正しく生ききることは出来ない。

老婆の厳格さが、私に厳格さを伝播させた。
私の厳格さはA父を追い詰め、A父はAちゃんに厳格さを求めるようになるかもしれない。
どうかAちゃんが幸せでありますように。

私達消費者が、企業に必要以上のサービスや厳格さを求めると、労働者は追い詰められ、自分が一市民や消費者という立場になった時、どこかで誰かに、必要以上の厳格さを求めるようになるだろう。

私が今回こらえきれずに伝播させてしまった、厳格さというこのループは、いつかまた私の元へと、形を変えてやってくるであろう。
寛容さは相手のためではなく、立場や考え方や状況が変化した『未来の自分』を(未来から見て過去であるところの)『今の自分』が許すためにあるのだと、朝、娘に話したばかりなのに。

今は、誰もが正しくあらねばならない。
少しでも正しさから外れたら、SNSが探し回られ、自宅が晒され、就職も結婚も不可能に。

なんだこのユートピア風のディストピア

猛省した私は、今後、寛容さのループを少しでも伝播させるべく行動することを、今ここに誓う。
そうしたらいつか寛容さのループの一端が、Aちゃんに到達するだろうか。