高校時代の家庭科の教師に、A先生という方がいらした。
長い黒髪にパーマを掛け、メイクもちょっと華やかな、しかし落ち着いた物言いをする先生であった。
ある日、調理実習中、私は大きなすり鉢を落として割ってしまった。
私は当然怒られることを覚悟して、先生にあやまりにいった。
しかし先生は、
「物が壊れるのは当たり前です。
わざと割ったわけではないでしょう?
それより怪我は無かった?」
と、非常に冷静におっしゃった。
私は驚いた。
いまでこそ、無意味に怒ることは逆効果、というような各種教育理論が広まっているが、当時はそんな論調は無かったように思う。
「怒るのは奇異で未熟でみっともないこと」
マレーシアなどではそう言われると本で読んだことがある。
私が今勤めている多国籍な職場では、怒る人は見たことがない。
人間なので稀に誰かがミスをすることもあるが、特段だれも怒るでもなく、冷静にリカバーする。
土下座をする人も、椅子を蹴り飛ばして激昂する人もいない。
なので、ミスを隠す必要もない。
何より、クリティカルなミスは起こらない様な仕組みがあるのだと思う。
書いてて気づいたが、そもそもあまり「ミス」の概念がない。
綺麗事のようだが、「うまく行かない方法を見つけたね、今見つかって良かった」というような扱いであるように思う。
今の職場でもし激昂する人がいたら、その人自身の評判と立場が危うくなるように思う。
そういえば、大学時代に勉強したデザイン学では、『人はミスをする生き物である。だからそれをデザインによって防ぐのだ』と散々教えられたものだ。
私は、朝、娘に怒ってしまった。
散々、前日までに持ち物を揃えなさいと言ったのに、
「赤白帽がない、失くしたようだ」
と出発の時間になってから言い出したからだ。
前日までに言ってくれれば買えたのに。
「だから前日までに持ち物を揃えてといつも言っているでしょう」
と、怒鳴りこそしないものの、しつこく何度も言ってしまった。
しかし、よく考えたら、娘が忘れ物をしたからと言って、私に一体、何の影響があると言うのだ。
困るのは娘だ。
私が怒る筋合いはない。
娘は、学校で困り、さらに私に怒られ、ダブルで凹むこととなる。
良いことは特にない。
こんなことが続けば、娘は私に困りごとを相談しなくなり、ミスを隠すようになるだろう。
なぜ私は怒ったのであろう。
もしかしたら私は、娘が忘れ物をすることで、私の評価が下がるとでも思っているのではないだろうか。
うわー、最低だな!
私は常々、子供の成果を自分の成果だと思う親にだけはなるまいと考えているが、子供の失敗を親の失敗だと思うのもまた、同じことではないか!
子供は子供で、私は私だ。
私はただ、人間はミスをするものであることを認識し、精々、子供がミスをしにくい、リカバーしやすい仕組みの構築に腐心すれば良いだけではないか。
娘が帰ったら謝ろうと思う。
娘と自分を同一視しかけた自らの愚かさを。