nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

人を変えることは出来ない

人がイライラするとき。
その原因は大抵、
『他者が自分の思う通りに動かないから』
である。

親戚に未婚を責められたとか、親に子無きことを責められたとか、電車の中で化粧をする人を見てしまったとか、電車の中で化粧をする人がパフを落として目の前に座っている人の喪服のスカートを汚すところを見てしまったとか、満員電車の中で化粧をする人のマスカラの口が手すりを汚すのを見てしまったとか、勤務時間が長くて給料も安くて都心に部屋を借りることも出来ないことから通勤時間が長く更に勤務先から女性だけ化粧が強制されているからやむを得ず電車内で化粧をしていたらネットで叩かれたとか、電車のドア横に寄りかかっている人がドアの開いたタイミングで一旦降車しないとか、連日の残業で疲れ切って電車のドア横に寄りかかって寝たふりをしていたらドアの開いたタイミングで一旦降りるように注意されたとか、子供が親の思う通りに動かないとか、コンビニで接客していたら態度の悪い客が来たとか、営業先で無視されたとか、部下の成績が悪いとか、車で煽られたとか、前の車が己の理想とする速度で走らないとか、夫が(妻が)家事をしないとか、全部全部全部、イライラは他者の行動に由来する。

でも。
根本的に、見知らぬ他人であれ、我が子や実親や配偶者であれ、『他者』の行動は最終的には他者自身が決めるのである。
自分に考えの基準があるように、他者には自分とは異なる考えと行動の基準があるのである。
たとえ我が子であれ、他者であるから自分の考えを持っているし、いずれ親の手を離れて自分の考えで生活を成してゆく。
もう私は、心配し過ぎるのをやめた。
犯罪に巻き込まれて死なれたりするのは困るが、そうでなければ最低限口に糊してくれればよい。
本人の希望があればいくらでも教育に出資するが、ルートは自分で決めて欲しい。
親の希望のルートに誘導し、有名大学に合格したらそれを親の手柄として喧伝するような行動はしないと誓う(誓う側からやってしまいそうで怖い)。
世の中には色々な人がいて、その数だけ『基準』があるのだと知って欲しいので、親以外の人からの教育を大事にしたい。

他者の行動から逃れるには、最終的には、その場から逃げるか諦めるか受け入れるしかないのである。
逃げるには、パワーが必要である。

親戚付き合いをやめるパワー。
電車に乗らなくて済む生活へと変えるパワー。
車に乗らなくても済む生活へと変えるパワー。
職を辞めるパワー。
夫(妻)と別れて生きて行くパワー。

人と関わらなくても済む生活へと変えるパワー。

でも、そうやって他者の行動から受けるイライラから逃れた先は、誰とも接することなく、誰からも助けられない、見捨てられた裸の王様の一人部屋である。
裸の王様は、自らの基準を他者に強いようとした。
王様は王様であるから、臣下は王様の基準を受け入れたけれども、王様の威光を受けない人間からしたら、王様の基準を受け入れる理由などない。

自分や子供の命を守るために、逃げるパワーは必要である。
だが、すべての他者から逃れた先では、生きることも難しい。

般若心経に、色即是空という言葉がある。
目に映る全ては移ろいゆく『現象』に過ぎない。
現象(色)はいずれ霧散して空へと消えゆく。
それに囚われ、自らの基準との違いをああでもないこうでもないと悩むことこそが苦しみの根源であり、執着なのである。
自分の中の基準は、緩やかである方が生きやすい。
執着が減れば笑顔でいられる時間が増え、家族に良い影響を与え、人も寄ってくるのではないか。
人が寄ってくるということは、運(機会)も金も寄ってくるということである。
執着に凝り固まれば苦しみが増え、眉の間に皺が入り、口角は下がり、人も運も金も逃げてゆく。

口角を上げよ。
眉の力を抜け。

子供には、世の中には色々な人がいて、その数だけ『基準』があるのだと知って欲しい。
だから、親以外の人との対話を大事にしたい。
親である私の基準が絶対的に正しいのか分からない。
多分、どこかしら間違えているだろう。
絶対的に正しい人は存在しないから。
子供には、私の基準の間違いを看破し、数多くの基準に触れ、己だけの柔軟な基準を作り上げていって欲しいと願う。