nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

多世界解釈が怖い

馬鹿なことを承知で書く。

多世界解釈が怖い。

シュレディンガーの猫が云々とか、スリットの隙間から電子だか原子だかを飛ばして云々とかのやつだ。

昔は全く怖くなかったし、今も別に心から多世界解釈派に与して生きているわけではない。

だが子供が産まれてからというもの、多世界解釈という考え方が怖くて怖くて堪らない。

子供がふとしたことから何かしらの事故に遭いそうになった時、助かって良かったと思うと同時に、助からなかった場合の世界も存在するのかも知れないと思うと、その世界の子供と夫と自分が心配で心配で堪らないのだ。

まさにその瞬間、確率により事故に遭った世界と遭わなかった世界が分岐したかも知れない、みたいな。

ああ、、書いててつくづく思うのだが、本当に馬鹿なこと言っているなぁ。

来年の事を言うと鬼が笑うというが、来年どころか、はたまた未来どころか、違う世界線で発生したかも知れない事象を心配するとは!

何かもっと幸福な世界線を想像する事で恐ろしさを中和出来ないかと思うが、子供達が安全で飢えずに生きてここに居るという事を超える程の幸福な世界線はなかなか想像が難しい。

親として子供に望む事は全く無いでもないが、その『親の望む事』を易々とこなす別の世界線の子供は、なんだか私の知る私の子供ではないような気がする。

そしてそんな世界線の私もまた、私ではないような気がする。

うーんそうかぁ、生きている猫と死んだ猫は重なり合った状態にあるかも知れないけれど、生きている猫にとって、死んだ猫は自分とは別の猫であると認識しているのかも知れないなぁ。

というか、世界の外の存在であるから『認識出来ない』のか。

なんか落ち着く事が出来た。

少なくともこの世界線の私の子供はいま無事なのだから、子供の手でも握ってさっさと寝るとしよう。