nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

私の考える少子化の原因、プラレール、そして誰にも気を使わずモノを食べるということ

世に少子化の原因と言われるものは数あれど、私の考える原因の一つは、幼児を一人で外に遊びに出す事が禁忌になったことである。

乳幼児は、無秩序である。
大人の為にデザインされた秩序立った生活とは、存在自体が相容れない。
秩序立った生活とは、各人の生命と権利が守られ、理不尽が無く、因果関係が明白で、原因があり結果に繋がり、自分で現象をコントロール出来る生活のことである。
乳幼児との生活は、それらすべてが破綻する。

夫がよく観る『孤独のグルメ』というドラマがある。
そのオープニングで、
『誰にも邪魔されず、気をつかわずモノを食べるという孤高の行為。
 この行為こそが、現代人に平等に与えられた最高の癒しといえるのである』
という語りが入る。
私はこれを聞くたびに一抹の虚しさと疎外感に苛まれていた。
乳幼児を育てる親は、そんな行為は一切許されないのである。
何年間もだ。
現代人に平等に与えられるべきものが、乳幼児を育てる親には与えられないのである。
いや、そのこと自体は自ら望んだ状態であるから別に良いのであるが、この文面を考えた方の視界に、『乳幼児を育てる親』が現代人の構成員として全く入っていない事が悔しいのである。

そう、『乳幼児を育てる者』はもはや現代人ではないのだ。
『乳幼児を育てる』という行為は、現代人と相入れない、『前時代的な行為』なのだ。

いや、これは正確性を欠いている。
『現代』を除外した時代区分は
先史 - 古代 - 中世 - 近世 - 近代
である。
前時代は『近代』にあたるが、当該文面では『自由にメシを食う権利は現代人に平等に与えられる』と書いてあるから、乳幼児を育てる親は、
先史人 - 古代人 - 中世人 - 近世人 - 近代人
のいずれかであるということだ。
従って訂正する。
『乳幼児を育てる』という行為は、現代人と相入れない、先史的あるいは古代的あるいは(以下略)な行為なのだ。

断っておくが、私は子供を愛している。
世界一可愛いと思っているし、子育ては代替不可能な喜びに満ちている。
それら、子育てに伴う正の側面は、あらゆる負の側面を補って余りあると認識している。

しかし事実として、乳幼児は秩序の破壊者である。
更に学童期を経て反抗期を迎え、親である自分が死ぬまで葛藤を産み続ける。
それらの葛藤は本来、人としての営みの主要なコンテンツであったはずであるが、現代に於いては強制イベントではないよな、と思う。
こうした負の側面しか目に入らなければ、当然、子供を持ちたいと思う者は減るのである。

ではなぜ、近代以前においては人が子を産み育てていたかというと、

・社会的圧力
・子供の存在が労働力および老後の保障であった
・周りに子供がいたので子供が身近であった
・『庶民にも人権がある』ということが発見されていなかったため、自己の人生への決定権を持てなかった
・そもそも社会全体の成熟度が低く、秩序無き状態が(消極的にであれ)受け入れられていた

などの理由による。
社会が成熟し、正しさと秩序によって埋め尽くされてしまったら、そこに、子供の立ち入る隙は無いのだ。

我々の親や祖父母の世代は、それでもまだマシだっただろう。
幼児を一人で外で遊ばせることが出来たからだ。
乳幼児育児に大変な点は多い。
寝ない、食べない、散らかす、イヤイヤする、などだ。
私が特に大変だったと感じたのは、『子供が親を自らの延長にする』ということだ。
子供は『やりたいこと』の塊だ。
だが自分ではできない。
まだ小さいからだ。

そんな時、子供は親を自らの延長とする。
「水飲みたい」
「絵本読んで」
プラレール(車両)の電池入れて」
プラレールの電池出して」
プラレールの電池入れて」
プラレールの電池出して」
プラレールの電池入れて」
プラレール分解して」
プラレール組み立てて」
プラレール分解して」
プラレール組み立てて」
「あのおもちゃ出して」
「あれがない、探して」
「これがない、探して」
「粘土やりたい」
「児童館に行きたい」
「児童館にやっぱり行きたくない」
「児童館に行きたい」
「絵本読んで」
「お店屋さんごっこの相手をして(4時間くらい)」
「お店屋さんのお客さんはこういう言動をして。それ以外のリアクションは一切許さない」

これらは一例であるが、この手の要求が1分も空けずに文字通り朝から晩まで続くのである。
歳の近い子供が複数居れば、要求も複数倍だ。
そしてそれと並行して、床一面に散らかされるおもちゃや工作の残骸を際限なく片付け続ける苦行が続く。
家事をすることは基本的に許されない。

そんな要求、突っぱねればいいとお思いだろう。
しかしもし少しでも突っぱねれば、子供はこの世の終わりのように泣き喚き続け、事態は混迷を極め、終いには児相が来るだろう。

更に。
親は手足の延長なだけではなく、脳の延長としても利用されるので、延々とワケの分からないおしゃべりを聞かされる。
それの一体なにが辛いのかとお思いになるだろうが、朝から晩までぶっ続けでワケの分からないおしゃべりを聞かされると気が狂いそうになるのである。

なお、子供が『自分の延長』として要求をぶつけてくるのは、日頃世話をする親だけである。
普段面倒を見ない親がたまに数時間程度子守をしても、何も要求されないであろう。
『自らの延長』と認識されていないからだ。
それで「楽勝だったよ」などと言われても、子供が寝ないことにも食べないことにも責任を持たず、嵐のような要求も無く、おもちゃの無限片付け作業もしないで床一面のおもちゃを放置したままなのだから、そりゃあ楽でしょうよ、というものだ。

幸い、子供が長じて理屈が通じるようになり、『親はどうやら自分とは別の人格を持つらしい』ということを子供が理解してからは、このような事はなくなった。

ほんの3年程度の期間であったが、当時はとても辛かった。
当時の子供達の写真を見ると、とても可愛らしく、この頃の子供に会いたいなぁ等と思うのだが、無限に続く要求の嵐と、虚無でしかないおもちゃの無限片付け作業、毎晩4時間ほど掛かる地獄の寝かしつけ等々を思いだすと、う〜んやっぱいいかな、となる。
しかし驚くべきことに、当時の私は、そのような、『とても辛かった』と思い出されるような過酷な状況で、毎日あふれんばかりの『幸せ』を感じていたのである。

周 燕飛氏の『貧困専業主婦』という本では、専業主婦の主観的な幸せの度合いが高いことが指摘されている。
子供とのふれあいが与えてくれるオキシトシンの分泌は、乳幼児育児に伴う過酷さを補ってあまりあるものなのかもしれない。
『評価されない反復作業による虚しさ』と『将来的なお金の不安』と『幸せ』は、全て両立し得るのである。
その後私は再就職をし、ブリリアントホワイトな企業で穏やかで賢い人たちに囲まれ、成果を正当に評価され、将来の学費と老後の費用の目処も何となく立ち、家事育児の多くを夫に任せることで、当時の不安や虚しさから解放されたが、それでもあの頃の、子供の笑顔を見るだけで発生する、脳が痺れるような多幸感というものは、得られなくなってしまったと感じる。
働き出してから、『子供と同じ視点』というものを失ったようにも思え、それに寂しさを感じることもある。
ただしこれは再就職とは関係なく、単に子供の成長に伴うものである可能性もある。
何より専業主婦として乳幼児を育てるような毎日を永遠に続けることは、私の性格的に無理であっただろう。
いずれにしても、あの、子育てに伴う『脳汁ドバドバ』的な多幸感の存在は、もっと周知されても良いように思う。

閑話休題
当時、幼児を外に一人で遊びに出し、その間に家事が出来たら、どんなに楽だったか。
私は昭和の生まれであるが、私の親など、「子供は風の子!」をスローガンに、幼児である私を執拗に外へと追い出そうとしていたものだ。

断っておくが、私は過去の礼賛者ではない。
少子化には正の側面と負の側面があるので、必ずしも食い止めるべきとは思っていないが、もし食い止める必要があるのならば、それは過去への遡りではなく、未来へ向けた新たなスキームにより実現された方が好ましいと考えている。

さて。
前述のように私はかつて専業主婦であったために昼間子供が家に居り、上記のごとき状況が発生していたが、もしこれがフルタイム共働きで昼間保育所を利用するような状況であっても、それはそれで大変だったことだろう。
帰宅後、構って構ってと甘えまくる子供との時間を確保しながら家事をこなすなど不可能な事に思われる。

近年、親の就業状況に関わらず、公的な保育サービスを利用できるようになるという話を聞く。
喜ばしい事だと思う。
その時こそ、乳幼児の親よ、誰にも邪魔されず、気をつかわずモノを食べ、『ここに現代人がいる!』と叫ぼうではないか。

 

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