nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

春休みをぶっとばせ!

春休みである。
夫は連日終電、毎週末休日出勤である。
朝から晩までワンオペ育児である。
なんとか子供達に健全な楽しみをと思い、土埃舞う公園や、小学生で混雑する児童館へと毎日毎日連れて行っていたが、流石に疲れて、今日はずっとテレビに相手をさせて過ごしてしまっている。
こんな時、健全な楽しみと同世代との関わりを毎日提供してくれる保育園はいいなと思う。
煽り抜きで羨ましくなる。
勿論、どちらの道も利点と欠点があり、自分たちの価値観で総合的に判断した結果であるので後悔はないのだが、子供を外で放牧出来た昭和はいいよな、などと思ってしまう。
まあ今日などは、お庭で遊んできていいよと言っても、娘は「え〜、寒いからいやだ」などと言うのであるが。

最近やっと、娘と息子が親の介入を必要とせず二人で遊ぶ、ということをし始めた。
これはとても良い。
まだ、姉弟二人だけで一緒に遊ぶのは突発的且つ短時間であるが、二人で楽しそうにきゃーきゃー言いながら遊んでいるのを見ると心底ほっとする。
外出しなくてもいつでも関わり遊びが出来て、同じ家の中にいれば多少目を離しても大丈夫であるからだ。
息子が生まれてから娘が入園するまでの半年間は娘の壮絶な赤ちゃん返りで私はノイローゼ寸前となり、天真爛漫であった娘は陰気な性格になってしまい、このまま戻らなかったらどうしようかと思い悩んだ。
しかし今、娘はいつのまにか元の天真爛漫な性格に戻り、弟をとても可愛がってくれるようになった。
年齢及び経済的な制限さえなければ、もう一人くらい産んでもいいかな、などとも思うが、もう一度あの赤ちゃん返りの時期を乗り越える自信はないのである。

 

 

どこまで我慢強いんだよ日本女性!

大人が全員外で働いていたら毎食外食でいいんだよ!といっている私であるが、家事を否定しているわけではない。
自分自身、綺麗に整った部屋に暮らしたいし、インスタント食品よりは、手作りの食事が美味しいと言う気持ちも否定し難い。
私が否定したいのは、家事育児介護のタスク量を変えないまま、そこに昭和のサラリーマンと同等の出力を必要とする仕事までも追加して、人員を増やさずなんとかしようという考え方である。
タスクの洗い出しをせず、人月計算をせず、勢いだけでなんとかしようとしてもそのプロジェクトは炎上する。
それは、仕事が増えても人は増やさない、精神論や根性論での解決を提示する、ブラック企業のやり方そのものだ。
その思惑に気付いてか気付かずか、「自分が休んだら迷惑が掛かる」などと考えてギリギリまで頑張ってしまう、過労シ寸前の社員そのものだ。

今は子供を持つことに対する社会的圧力は弱く、子供を持つ事は趣味と同等に扱われているので、そんな状況になる覚悟がなくては子供を持てないのであれば、持たなくても良いと思う人が多くいるのも不思議では無い。
余談であるが、子持ちが(趣味で子供をもうけた癖に)税金を多くあてがわれているという指摘は誤りである。
税金をあてがわれているのは子供の親ではない。
一人の国民である子供自身である。
指摘しているであろう人も、税金をもとに教育や医療を受けたはずである。
もちろん当人が子供であった当時は児童手当などは無かったであろうが、世代間の不公平は言っても仕方ないことである。
それを言うなら、今の子供ほど将来経済的に割りを食う世代はないし、無茶な戦争に出兵させられた世代ほど不運であった世代もない。

閑話休題

以前新聞で、離婚した夫婦の子供の、親権に関する記事を読んだ。
日本も共同親権にすべき、という論旨である。
そこに描かれた夫婦は、共働きで子供を育てていたが、家事育児の分担で揉めて離婚し、妻が親権を得たが、夫も親権を持ちたい、ということであった。
子供を育てるということは大変なことで、一人では到底無理であるために現代日本では一般的に夫婦で育てるという形が採られている。
時代や地域やコミュニティーが変わると、女性側の親族が育てる妻問婚のような形態が採られることもあるようだ。
家事育児も良う分担できんと親権だけ分担したがるとかどないやねん、というツッコミはさておき。
よりよい生活や、社会との繋がりを求めて折角夫婦で頑張っていたのに、結果として一馬力で全タスクをやらねばならなくなるのは悲しい。
手段と目的が入れ替わっているように思う。
この手の離婚を、『家事分担決裂離婚』とでも呼んではどうかと思う。
名前が付けば警戒することも出来よう。
夫婦間で家事育児介護がうまく分担できなければ離婚に繋がる時代なのだという、誰かの夫や父親にも長時間労働をさせず早く家に帰してやれという、世の中へ対する警鐘にもなろう。

なによりも、この国が女性の就労率を上げようとするならば、『綺麗な部屋や整った生活を道徳的に良しとする価値観』を、放棄しなくてはならないのだと思う。
家事を外注するという方法も勿論あるが、それは、外注する人と外注される人に大きな賃金格差があって初めて成り立つことであるから、全ての世帯が利用出来るわけではないし、そういう大きな賃金格差があること自体どうよ、と思ってしまうので、抵抗を感じる。

そして、昭和の母親像を放棄するという大人の決定に、子供がどう思うか?
生活に関する近代の道徳的価値観を切り捨てて、大丈夫なのか?(たぶん大丈夫なんだろうと思うが)
一体どうすべきなのか?
その答えを求めて、色々な本を読んでいるが、よくわからずにいる。

 

 

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「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす (光文社新書)

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習い事を決めた

春から娘に習い事をさせようと思っている。
元々、やれピアノが習いたい、バレエが習いたいと言っていたのを、まだ難しいだろうと思いのらりくらり躱していたのであるが、年中ともなればそうも言っていられまい。
娘の希望から、絵画教室、バレエ教室、スケート教室の体験に行かせたところ、一番楽しかったと言う絵画教室に決めることにした。
私としては、踊り好きの娘に向き、且つ将来一番役に立つバレエ教室に行って欲しいと思っていたのであるが、ここで私の希望を通してしまっては、ピアノ好きの趣味を子に託した母と同じ過ちを繰り返してしまう事になるので、本人の意志を尊重した。
正直、絵画教室の講師陣の出身大学は私と同じであり、それどころか同窓生だったりもするので、なぜ自分でも教えられそうなことをお金を払って教わりに行かせねばならんねんという思いはあるのであるが、それを言っては、お勉強の出来る親の子は塾に行かないのか、などという話になってしまうので、割り切ることにした。
何より、他の子と一緒に並んで制作をすることは大きな刺激になることだし、そういえば自分が子供の頃一番行きたかったのは絵画教室であったなあ、と思い直した。
私は子供の頃、習い事というのは自分が興味のあることや好きなことを追求してよいものだとは認識していなかったのだ。
必要性はわからないけれども嫌なことを頑張る、修行のような物だと思っていた。
そして、絵画教室という夢のような場所がどこか遠くにあることを知ったのは高学年の時であったのだ。


なお、バレエが将来役に立つというのは、別にプロを目指させる為では無い。
バレエ習うと背筋が伸びて姿勢が良くなる。
指先のポジションや手の動かし方も習うので、動作が優雅になる。
姿勢が良い、動作が優雅というだけで、美人でなくとも少し美人風に見える。
美人風に見えるだけで色々得をするものである。
容姿の全く関係ない仕事であっても、「まず相手に自分の話を聞いて貰えるか否か」という部分が成果に与える影響は大きい。
何より、姿勢や振る舞いを人に褒められると自信がつく。
私はもうアラフォーではあるが、独身時代の貯金を使って、いつの日かもう一度、数十年ぶりにバレエ教室に通おうかなどと思い、育児で下を向きっぱなしの為に大分丸まってしまった背筋を反らし、毎夜柔軟を行ない、背中を痛めている。
子供は親と違う人間である。
親が興味のあることは、親自身がやれば良いのだ。

 

 

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断捨離やめました

私は元来、スッキリと片付いたオッサレ〜な部屋が好きである。
ダークブラウンの木材でまとめて、照明も凝って、生活感などゼロ、というような。
従って、それを妨げることの無いよう、可能な限りモノは少なくしたいと思っている。
否、思っていた。

しかし今更であるが、子供が幼いうちはやっぱりやめておこうと思う。
子育て系の情報は世に多くあり、その中でも、『子供が居る中でどうやってスッキリ暮らすか』というテーマは人気の高いものである。
ライフデザイナーだか、片付けコンサルタントだか、そういうようなプロの方達の記事も多い。
だが、そういう類の情報を読むと、
「他所の子供ってそんなに聞き分け良いのかぁ〜〜??」
と疑問が湧き、少なくともうちの娘の性格ではムリだわ、となるのである。
娘には、2歳頃から少しずつ自分で片付けるように言っており、今思えばちょっとしつこく言い過ぎたかなと思うくらいであるのだが、現在は、まあまあ片付けられるようになっている。
というか、片付けないと1歳の息子がすぐさま荒らすので、大事な物を守る為には自分で片付けざるを得ないのだ。
それでも、リビングは子供めいたデザインのおもちゃでいっぱいで、スッキリオサレ空間とは程遠い。
片付け関連の記事では大抵、

・とにかく物の絶対数を減らす
・増やさない
・物をしまう場所を決める
・一定期間触らなかったものは捨てる
・「使う『かも知れない』モノ」は捨てる

などと、まあ当たり前だよね、わかってますよ、な事が書いてある。
だが、おもちゃを捨てるには持ち主である娘の許可が必要であるし、『大人から見たらくだらないモノ』を普段一切買わないようなストイックな子育てを子供たちに強要したくはないし、物をしまう場所は娘自身が強固な意志をもって決めており、私が何と言おうと、相当な痛い目(大箱にまとめて入れたネックレスが全部絡まるなど)を見ないと私の助言など聞かないし、牛乳の空きパックやラップの芯や段ボール箱は、今すぐ使わなくても娘が工作で必要とする可能性があるため多少はストックしておかないといけないしで、一つも守れる気がしないのだ。

子育てが終わった頃の、20年後の未来を想像してみる。
この、目がチカチカするようなおもちゃの山は、もうどこにも無い。
汚れても良いダサい部屋着ヘビロテ生活とはサヨナラして、素敵なワンピースを着る。
憧れのスッキリオサレ部屋で老年に差し掛かりつつある夫と、静かにジャズを聴きながらチーズを肴にちょっと良いワインでも………。

って、いやいや、今となってはそんなの全然楽しそうじゃない!
いかに盛大に散らかっていようとも、四六時中うるさく話しかけられようとも、もちもちほっぺと、ちっちゃあんよを好きなだけムニムニと出来る今の方が、自分にとっては最高にイケてるし、幸せなのである。

勉強すればする程ハードワークになる不思議

昔から不思議に思っていることがある。
勉強して、それなりに学歴が高い人ほど、ハードワークな気がするのは何故だ?
私に関して言えば、美大出身なので普通の学歴ハイアラキからはちょっと外れたところにいるのであるが、高校まではそこそこ頭の良いところに行っていた。
と言っても、高校入試までポテンシャルだけで乗り切れてしまったが故に家庭学習の習慣が全くついておらず、高校では雑魚中の雑魚となってしまったが。
男性の人生のサンプルが余り多くないので、ちょっと女性に限定した物言いになってしまうが、自分の周りでは、高学歴女性の人生はなかなか大変だ。

一生懸命勉強して、頑張って総合職になりました。
ようこそおめでとう!
お金は他の男性と同じだけいっぱいあげるよ!
でも労働時間はめちゃくちゃ長いからね!
転勤もあるよ!
え?海外旅行が趣味? 正月などの混んでいて割高な時期に行ってね!
習い事? 平日の夜は毎日残業だからね、ムリムリ!
妊娠した?
うちはホワイトだから育休とれるよ!
近くに子の祖父母住んでる?
マミートラックか元のルートか選んでね!
保育園入りにくいっていうから 0歳4月から保育園入れて復職するよね?
え? 断乳? 搾乳? よくわかんないけど頑張って!

一方その頃、勉強をそんなに頑張らなかった女性たちは、一般職になり、夕方退社して、習い事して、合コン行って、旅行して、子供を母乳で育て、子供の全ての成長を見届けるのである。
いや、少々偏りがあるか。
一般職の女性を批判するつもりはないのだ。
彼女達には彼女達の戦略があり、大変さがあり、悩みがあろうことは理解できる。
しかし、20代〜30代はじめの頃、体を壊す程の長時間労働を強いられ、給料を使う暇もなく、子供を産むタイミングも逃しつつあった自分には、確かに、あまり勉強をしてこなかった女性の人生に対する嫉妬があった。
理不尽なことはわかっている。
別に、学歴があろうが、キャリアを追わない仕事を選ぶ事は自由だからだ。
逆は難しいが、選択出来るということが、学歴を持つ者の強みであるからだ。
だが、『自分に出来ること』をなるべく生かして社会に貢献し、お金を貰おうと思ったら、何故だかこうなっていたのである。
出来ることや、やりたい事が、未だ昭和のサラリーマン的就業スタイルを必要としていれば、それに合わせるしかない。

古い本で現在の状況にそぐわない部分も多々あるが、『下流社会』という本がある。
ここには、日本が階層化する中で、上流に属する者がハードに働き納税し、下流に属する者は国の恩恵にあやかりつつ趣味を大事にしながら緩やかに働く、という趣旨の事が書いてある。
曰く、ピアノなどの楽器演奏は今や、下流の女性の趣味なのだそうである。
確かに、私も、収入は上流とは言えないまでも時間だけはハードに働いていた頃は、ピアノなど弾いている暇は全く無かった。
というか趣味など持てなかった。
働きすぎて体を壊して父に車で病院に連れて行ってもらった帰り、ホームセンターに連れて行かれ、やっと「そう言えば私、絵や工作が趣味だった。なんで今やっていないんだ?」と思い出した程だ。
殆ど無収入となった今となってやっと、自分が他に何を好きだったかを思い出しつつあるのだ。

私は選択し、会社をやめた。
キャリアを下りた。
後悔はあまりない。
子供が私をこんなにも必要とするのは、数年だけだ。
ホルモン剤による不妊治療までして子供を求めたのは、泣いてすがる子供を預けて、人に育てて貰うためではない。
こんなことを書くのは時代遅れだと分かっているし、誰かを傷つけるかも知れないし、叩かれるかもしれないが、あくまで私の主観では、自分は子供が小さいうちは自分で育てたい。
その分経済が回らなくなるから、国としては、子供を預けて働いて、要所要所でお金を回して欲しいだろう。
しかし、若い頃もう十分働いたから良いではないか。
貯金だって、貯キャリアだって、この時の為にしてきたと思っても良いではないか。
この数年だけ、子供達の側で見守らせて欲しい。
将来年金なんてあげませんよ、老後どうなっても知りませんよと脅されても、今この数年が自分にとっては人生で一番大事なのだ。

そういう私も、娘には勉強大事だよ、働くことは大事だよ、と日々言い聞かせている。
今の所は大したことをさせていないが。
本当は、総合職であっても長時間労働ではない、という働き方が、男女問わずもっと広がれば良いのにと思う。
これからの時代、男性だって介護をしなくてはならないのだから、もう昭和のサラリーマン的働き方など、誰だって出来なくなるのだ。
長時間労働と専業主婦(主夫)は表裏一体の関係にある。
労働時間が長いから、どちらかが仕事を辞めて育児などのケアワークに従事しないと家庭内タスクに対する人月計算が合わなくなり、一馬力になったらもっと稼がないといけないので長時間労働からますます逃れられなくなる。
子供達の時代には、もっと世の中が良い方向に変わっていて欲しいが、その為に今自分が何をしたら良いのかはよく分からないでいる。

なんにせよ、人生万事塞翁が馬。
全ての選択の結果が良いか悪いかは、死ぬ時まで分からない。
ゴッホに対する評価のように、死ぬ時ですら、分からないかも知れない。

 

 

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下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

 

 

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母親だから出来るわけじゃない。やらなくてはならないから出来なくてもやるのだ。

子育て中の皆様。
特に、家族の中でもメインで育児に従事している(と感じている)皆様。
他の家族やそれに準ずる人に育児関連のタスクをお願いした時に、
「やり方が分からない(←教えてるのに)、出来ない、怖い、やったことない、自信ない」
と言われて断られた事はお有りだろうか?

私はある。
特に実の母親から散々上記の事を言われた。
初めて子供を産んで、いざ二人っきりの母子同室となった時、赤子がオムツを汚したのだが、替え方が全く分からなかった。
妊娠中のかなりの期間をサラリーマンとして過ごしていた為、平日昼間に開催される母親学級の類には一度も参加出来なかった。
更に、出産後にそれらを産院で教えて貰えるという話だったのであるが、出産が立て込んでいたとかで、教えて貰えなかったのだ。

困り果てた私は、産院近くに住む実家の母に来て貰った。
そして、オムツの替え方を教えて欲しい、一回一緒に替えて欲しい、他にも分からない事だらけで不安だから、しばらく一緒にいて教えて欲しいとお願いした。
母は、
「知らない、出来ない、やったことない、自信ない」
を連発し、退院後もミルクや沐浴等に関して何か聞いたりお願いしたりする度に
「知らない、出来ない、やったことない、自信ない」
と繰り返し、『文句は言うけど手は出さない』スタイルを貫いた。
因みに、母は姉と私を育てた経験があり、ミルクも紙オムツも使用したことがある。
私は上記の件を非常に遺憾に思っているのであるが、それは、『育児を直接手伝ってくれなかった』故ではなく、『私を育ててくれたあの母は一体どこに行ってしまったのか?』という喪失感故である事を補記しておきたい。
尚、母が若い頃に一人で行った海外旅行先の出来事などは詳細に記憶しているので、ここ数年の間に別人と入れ替わったという事は無いように思える。

一方、夫も、沐浴、ウンチオムツ替え、部屋も親も本人も全てがグチャグチャドロドロになる離乳食食べさせ、毎回ギャン泣きとなる歯磨き等々を、怖がって、若しくは難しがって、随分と長い間敬遠していた。
特に、夜泣きや夜間授乳については、「こんなに泣いているのになんで気付かないのか」と不思議に思うほど、いつも夫は涼しい顔をして寝ていた。
時々育児エッセイや育児情報冊子で目にする、『夜中の数時間おきの授乳は大変。時々お父さんがミルクを作って代わってあげましょう』などという父親像がファンタジーの存在に思えた。
母親は出産後にホルモンが変化するから細切れ睡眠でも大丈夫なように体が変化する、だから母親は辛くない筈だ、という説もある。
しかし、私に言わせれば、『寝かさない』という古来からある拷問、それを受けても死なない程度には耐性は出来るのかも知れないが、やはり、母親だって眠たいものは眠たいのだ。
眠くて、眠くて、気が狂いそうな程に眠くて、このままずっと寝ていられたらどんなに良いかと思うけれど、でもやはり赤子が泣いているから、渾身の体力と根性と気力を振り絞って、振り絞って、振り絞って、なんとか起き上がるのである。
一晩に何回も。
その辛さに母親と父親の違いなど無いのである。

それでも私は、夫に対して家事育児に関する不満を感じていない。
何故なら私は、育児に従事する為に仕事を辞めたからだ。
私は仕事は好きだったが通勤と無意味な長時間労働が大嫌いであった為、あのエクストリーム通勤地獄を代わってくれていると考えれば、育児のメイン担当は私で全然構わないと思えるのだ。
そして二人でバリバリ働いたら、絶対私はタスクの偏りに不公平感を覚え、夫に不満を抱えるようになる。
だからあらかじめ分業制にしたとも言える。
何より、夫は第二子出産後、長い育休をとってくれ、敬遠していたほとんどのタスクをやれるようになってくれたので感謝している。

話は戻るが、
「やり方が分からない、出来ない、怖い、やったことない、自信ない」
と言って断る時、その人は目の前の人の存在をどう思っているのだろうか?
『やったことない』がやらない理由になるのであれば、人間は歩くことすら出来ない筈ではないか。
新しい仕事を覚えることも、絶対に出来ないではないか。
目の前の人(赤子の世話をいつもしている人)だって、やったことない、やり方の分からないことを、怖い怖いと思いながら、それでもやらないと赤子がシンでしまうから、勇気を出して、時には汚れるのやだなーなどと思いながら仕方なくやるのである。

だから、そんな言葉で断られるよりは、
「そのタスクは自分の担当ではないのでやらない」
とか、いっそもっと簡単に
「面倒だからやりたくない」
と言われた方がよほど潔く思えるし、納得できる。

「やり方が分からない、出来ない、怖い、やったことない、自信ない」
と言われると、
「私だって同じなんだよ!」
としか思えないのである。

チコちゃんに叱られたくない

私は、真面目な人間である。
逸脱が無い、という意味では無い。
全ての言葉に対して、真に受けすぎるのである。
詐欺や押売りには引っかかった事は無い。
彼らの嘘は、『騙す事で彼らに利益が生まれる』ので、理解出来る。
分からないのは、軽い冗談などの『益無き嘘』である。
例えば、駄菓子屋などでおっちゃんに
「はい、30万円ね」
と言われたことがあろう。
これが苦手である。
流石に、おっちゃんが子供を派手にカモろうとしようとしているのでは無いだろうと理解はできるものの、
『え、突然何言ってるの、この人。
 私、どうしたらいいの???』
と混乱して固まってしまう。
あるおっちゃんはそれを見て
「冗談通じないんだね」
とか何か、呆れたふうな事を言っていた気がする。

また、私が新人の頃、新人だけの飲み会に、会社のちょっと偉い人が突然参加してきたことがあった。
その偉い人は、別の新人に「飲め飲め」と酒を勧め始めた。
彼は
「いや〜、勘弁してくださいよ」
「もうホンット無理っす」
「いや、流石に飲めないっす」
とか言いながら、でもなんだかんだ言って飲んでいた。
何度飲んでもまた勧められる。
何回も、何回もである。
私は、彼が本気で嫌がっていると思い、そんな彼に飲ませる偉い人が余りに意地悪であると思った。
また、まわりの空気も重苦しく、皆がその偉い人を持て余しているように感じた。
彼も皆も自分のお金を払い、時間を費やし、何故こんなひどい虐げを受けなくてはならないのか。
楽しく飲むために集まったのではないのか。
私は彼が余りにも不憫になり、酒の勢いもあってか、静かに泣き出してしまった。
これは社会人にあるまじき情けない失態であり、自分でもとても嫌であったし今でも反省はしているが、抑えらなかったのだ。

すると皆は私をみてギョッとし、
「いやいやいや、冗談でやっているんだから大丈夫だよ」
「皆冗談って分かっているんだよ」
などと言い出した。
飲まされていた彼さえも、である。
なにやら、そういう冗談の型があるらしい。
今でも理解不能である。

私の実家の家族で他に、斯様に言葉を真に受ける傾向があるのは、父と姉である。
母はその点に関してはまあ普通である。
父は私に輪をかけて冗談が通じない。
例えば、姉の昔のピアノの発表会のレコードを皆で聴こう、となる。
誰かが間違えて別の、立派なフルオーケストラのレコードを掛けてしまう。
私がそれに対して
「へぇ、おねえちゃん随分上手だったのね」
と言う。
無論冗談である。
しかし父は笑いもせず
「これは◯◯(姉)の演奏ではないよ」
と言うのである。

また、テレビ番組のCMまたぎの演出で、CM前にレポーターが何かの光景をみて驚きの表情を見せるのだが、肝心の光景は視聴者にはなかなか見せず、CM後も同じシーンを繰り返し、相変わらず光景はなかなか見せず、という型がある。
父はこれに完全にキレていた。
「これでは視聴者がレポーターの感情に全く共感できないじゃないか!」
と言いながら。

そして父も姉も私も、人がウェブサイトの事を『ホームページ』と言うと怒る。
その場では怒らないが食事の時間などに
「ホームページとは一連のページ群のトップに表示されるページのことを言うのだ!
 何故こんなにも誤用が広がっているのだ!」
と互いにぶちまけあう。

とにかく冗談が通じず、言葉を真に受け、曖昧な事が苦手な父と姉と私は、システム屋であることが快適である。
曖昧さを解決していく仕事であるからだ。

因みに父は昔アメリカで働いていたのだが、こんなにもジョークを理解出来ずにどうやってあの国で円滑なコミュニケーションをはかっていたのであろうか。
父は日本に帰ってきた事を
「人生最大の miss take だった」
と語るくらいなので、恐らく上手く適応していたのであろうが、一体どうやって?
人生の参考として聞いてみたいが、冗談が通じないという自覚が恐らく無い彼に対して
「あなたは大変冗談が通じないですがどうやってアメリカで通用していたのですか?」
と聞くのは何だか失礼な気がして聞いていない。
アメリカの技術者も大概ジョークが通用しない人々なのかも知れない。

前置きが長くなったが、NHKの『チコちゃんに叱られる』(以下、『チコちゃん』と呼称)である。
私は近年、テレビは自分ではドキュメンタリーと紀行ものとロシア時代劇とルパン三世シリーズしか観ていない。
ワイプやCMまたぎなどの演出がイライラするからだ。
観る時間が無いという理由もある。
しかし夫と娘が『チコちゃん』を好きなので、リビングに居ると観る羽目になる。

この番組、言葉を真に受けるタイプの人間が観ると、非常に疲れるのである。
まず、チコちゃんという5歳の少女のキャラクターから
「何故、◯◯なの?」
という問いかけがある。
これが耳に入った瞬間、真面目な自分は、持てる知識を総動員して答えねばならないと感じる。
そこで答えるのであるが、『チコちゃん』は普通のクイズ番組と違い、わざと質問と答えのニュアンスに微妙にズレが生じるように構成されているのだ。
「答えは、◯◯だから〜〜」
と発表された言葉は、大抵視聴者からすると意外なもの、それだけでは理解できないようなものであり、『え? なになに、どういうこと?』と興味をひいて詳細へ誘導するような作りになっているのだ。

例えばこうである。
チコちゃんが、

「何故、桃太郎は桃から産まれるの?」

と問う。
私はそれに対し、

「桃には古くから鬼を払うという言い伝えがあり、例えば古事記にはイザナギイザナミを黄泉の国に迎えに行った時に黄泉比良坂でイザナミの遣わした醜女達に投げつけて追い返したという記述がある。
 もっと元を辿れば中国の神仙思想に行き着く。
 西遊記では桃を食べて若さを保つ神仙たちのエピソードがある。
 主人公が鬼を倒すという運命を示唆するために、神聖な桃という属性を付与したのではないか。
 そもそも桃太郎の物語自体、中国の古書である『捜神記』あたりに原型があるのではないか。
 また、人間が物から産まれるという物語は世界各地に存在し、日本の垢太郎竹取物語チェコの切り株太郎など、偉業をもたらした者や恐ろしい事を成した者に人外の属性を与える物語形態の一種と思われる」

などと答える。
私の専門ではないので割と適当なのであるが、それでも問われた事に対して出来得る限り真摯に答えるのである。
しかしチコちゃんの答えはこうなのである。

「それは、大人が忖度したから〜〜」

曰く、昔から伝わる桃太郎の物語では、桃太郎は桃から産まれたのではなく、桃を食べたおばあさんが若返って桃太郎を産んだ、となっていたのであるが、明治時代にそれでは生々しいから桃から産まれたように改変した、とのことである。

え?
問いかけは、そこなの?
『なぜ、桃から産まれたか』
ではなく、
『なぜ、人以外から産まれたか』
なの?
元の問いかけと答えが、一対一になっていなくない?
『なぜ桃か』
の部分に対する答えが欠落してない?
そういう答えにするならば、質問文をせめて
『なぜ桃太郎は人間以外から産まれたのか』
としなくてはならなくない?
私は激しく混乱した。

あるいはこうである。

はやぶさ2は何の為に宇宙に行ったの?」

と問われる。
私は、

小惑星の欠片を取りに行ったんじゃなかったかな?」

と答える。
チコちゃんの答えはこうである。

「生命誕生の謎を解明する為〜〜」

もう、続きは耳に入らなかった。
質問が曖昧過ぎるのだ。
『何の為』と問うた時、答えのレベルはミクロからマクロまで無限に考えられ得る。

何の為に宇宙に行ったか。
小惑星の欠片を取りに行く為。
取りに行ったのは何の為か。
何かの実験の試料として使う為。
何の為の実験か。
生命誕生の謎を解明する為。
何の為に解明するのか。
何らかの病気の治療法を探る為、若しくは純粋に学問の為。
それは何の為か。
人間がよりよく生きる為。
それは何の為か。

以下、エンドレス。
もっと具体的に問うてくれないと、答えが一意にならない。
大学入試で出題されたら、どこかの予備校からツッコミが入るヤツである。
こんな意地悪なクイズ、一体どうやって答えろと言うのだ。
当てようが無いではないか。
混乱を通り越し、怒りが湧いてくる。

挙句、

「ボーッと生きてんじゃねーよ!」

と怒られるのである。

何故、精一杯真摯に回答したのに、曖昧な質問文によりミスリードされ、減点された挙句、5歳児にダメ出しされなくてはならないのか。
私は彼女に叱られるほどボーッと生きているのだろうか。
朝から晩まで子供達の世話でてんてこ舞いで、ボーッとなんてもう何年もしていない気がする。
なんでこんなやつに叱られなくてはならないのか。

満身創痍、疲労困憊である。

皆様ご覧ください。
これが、言葉を全て真に受ける人間の思考回路である。
夫曰く、
「テレビを観るのに絶望的なまでに向いていない」
のである。

 

 

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