nicesliceのブログ

子供を見るか、子供の視線のその先を見るか

勉強すればする程ハードワークになる不思議

昔から不思議に思っていることがある。
勉強して、それなりに学歴が高い人ほど、ハードワークな気がするのは何故だ?
私に関して言えば、美大出身なので普通の学歴ハイアラキからはちょっと外れたところにいるのであるが、高校まではそこそこ頭の良いところに行っていた。
と言っても、高校入試までポテンシャルだけで乗り切れてしまったが故に家庭学習の習慣が全くついておらず、高校では雑魚中の雑魚となってしまったが。
男性の人生のサンプルが余り多くないので、ちょっと女性に限定した物言いになってしまうが、自分の周りでは、高学歴女性の人生はなかなか大変だ。

一生懸命勉強して、頑張って総合職になりました。
ようこそおめでとう!
お金は他の男性と同じだけいっぱいあげるよ!
でも労働時間はめちゃくちゃ長いからね!
転勤もあるよ!
え?海外旅行が趣味? 正月などの混んでいて割高な時期に行ってね!
習い事? 平日の夜は毎日残業だからね、ムリムリ!
妊娠した?
うちはホワイトだから育休とれるよ!
近くに子の祖父母住んでる?
マミートラックか元のルートか選んでね!
保育園入りにくいっていうから 0歳4月から保育園入れて復職するよね?
え? 断乳? 搾乳? よくわかんないけど頑張って!

一方その頃、勉強をそんなに頑張らなかった女性たちは、一般職になり、夕方退社して、習い事して、合コン行って、旅行して、子供を母乳で育て、子供の全ての成長を見届けるのである。
いや、少々偏りがあるか。
一般職の女性を批判するつもりはないのだ。
彼女達には彼女達の戦略があり、大変さがあり、悩みがあろうことは理解できる。
しかし、20代〜30代はじめの頃、体を壊す程の長時間労働を強いられ、給料を使う暇もなく、子供を産むタイミングも逃しつつあった自分には、確かに、あまり勉強をしてこなかった女性の人生に対する嫉妬があった。
理不尽なことはわかっている。
別に、学歴があろうが、キャリアを追わない仕事を選ぶ事は自由だからだ。
逆は難しいが、選択出来るということが、学歴を持つ者の強みであるからだ。
だが、『自分に出来ること』をなるべく生かして社会に貢献し、お金を貰おうと思ったら、何故だかこうなっていたのである。
出来ることや、やりたい事が、未だ昭和のサラリーマン的就業スタイルを必要としていれば、それに合わせるしかない。

古い本で現在の状況にそぐわない部分も多々あるが、『下流社会』という本がある。
ここには、日本が階層化する中で、上流に属する者がハードに働き納税し、下流に属する者は国の恩恵にあやかりつつ趣味を大事にしながら緩やかに働く、という趣旨の事が書いてある。
曰く、ピアノなどの楽器演奏は今や、下流の女性の趣味なのだそうである。
確かに、私も、収入は上流とは言えないまでも時間だけはハードに働いていた頃は、ピアノなど弾いている暇は全く無かった。
というか趣味など持てなかった。
働きすぎて体を壊して父に車で病院に連れて行ってもらった帰り、ホームセンターに連れて行かれ、やっと「そう言えば私、絵や工作が趣味だった。なんで今やっていないんだ?」と思い出した程だ。
殆ど無収入となった今となってやっと、自分が他に何を好きだったかを思い出しつつあるのだ。

私は選択し、会社をやめた。
キャリアを下りた。
後悔はあまりない。
子供が私をこんなにも必要とするのは、数年だけだ。
ホルモン剤による不妊治療までして子供を求めたのは、泣いてすがる子供を預けて、人に育てて貰うためではない。
こんなことを書くのは時代遅れだと分かっているし、誰かを傷つけるかも知れないし、叩かれるかもしれないが、あくまで私の主観では、自分は子供が小さいうちは自分で育てたい。
その分経済が回らなくなるから、国としては、子供を預けて働いて、要所要所でお金を回して欲しいだろう。
しかし、若い頃もう十分働いたから良いではないか。
貯金だって、貯キャリアだって、この時の為にしてきたと思っても良いではないか。
この数年だけ、子供達の側で見守らせて欲しい。
将来年金なんてあげませんよ、老後どうなっても知りませんよと脅されても、今この数年が自分にとっては人生で一番大事なのだ。

そういう私も、娘には勉強大事だよ、働くことは大事だよ、と日々言い聞かせている。
今の所は大したことをさせていないが。
本当は、総合職であっても長時間労働ではない、という働き方が、男女問わずもっと広がれば良いのにと思う。
これからの時代、男性だって介護をしなくてはならないのだから、もう昭和のサラリーマン的働き方など、誰だって出来なくなるのだ。
長時間労働と専業主婦(主夫)は表裏一体の関係にある。
労働時間が長いから、どちらかが仕事を辞めて育児などのケアワークに従事しないと家庭内タスクに対する人月計算が合わなくなり、一馬力になったらもっと稼がないといけないので長時間労働からますます逃れられなくなる。
子供達の時代には、もっと世の中が良い方向に変わっていて欲しいが、その為に今自分が何をしたら良いのかはよく分からないでいる。

なんにせよ、人生万事塞翁が馬。
全ての選択の結果が良いか悪いかは、死ぬ時まで分からない。
ゴッホに対する評価のように、死ぬ時ですら、分からないかも知れない。

 

 

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下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

 

 

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母親だから出来るわけじゃない。やらなくてはならないから出来なくてもやるのだ。

子育て中の皆様。
特に、家族の中でもメインで育児に従事している(と感じている)皆様。
他の家族やそれに準ずる人に育児関連のタスクをお願いした時に、
「やり方が分からない(←教えてるのに)、出来ない、怖い、やったことない、自信ない」
と言われて断られた事はお有りだろうか?

私はある。
特に実の母親から散々上記の事を言われた。
初めて子供を産んで、いざ二人っきりの母子同室となった時、赤子がオムツを汚したのだが、替え方が全く分からなかった。
妊娠中のかなりの期間をサラリーマンとして過ごしていた為、平日昼間に開催される母親学級の類には一度も参加出来なかった。
更に、出産後にそれらを産院で教えて貰えるという話だったのであるが、出産が立て込んでいたとかで、教えて貰えなかったのだ。

困り果てた私は、産院近くに住む実家の母に来て貰った。
そして、オムツの替え方を教えて欲しい、一回一緒に替えて欲しい、他にも分からない事だらけで不安だから、しばらく一緒にいて教えて欲しいとお願いした。
母は、
「知らない、出来ない、やったことない、自信ない」
を連発し、退院後もミルクや沐浴等に関して何か聞いたりお願いしたりする度に
「知らない、出来ない、やったことない、自信ない」
と繰り返し、『文句は言うけど手は出さない』スタイルを貫いた。
因みに、母は姉と私を育てた経験があり、ミルクも紙オムツも使用したことがある。
私は上記の件を非常に遺憾に思っているのであるが、それは、『育児を直接手伝ってくれなかった』故ではなく、『私を育ててくれたあの母は一体どこに行ってしまったのか?』という喪失感故である事を補記しておきたい。
尚、母が若い頃に一人で行った海外旅行先の出来事などは詳細に記憶しているので、ここ数年の間に別人と入れ替わったという事は無いように思える。

一方、夫も、沐浴、ウンチオムツ替え、部屋も親も本人も全てがグチャグチャドロドロになる離乳食食べさせ、毎回ギャン泣きとなる歯磨き等々を、怖がって、若しくは難しがって、随分と長い間敬遠していた。
特に、夜泣きや夜間授乳については、「こんなに泣いているのになんで気付かないのか」と不思議に思うほど、いつも夫は涼しい顔をして寝ていた。
時々育児エッセイや育児情報冊子で目にする、『夜中の数時間おきの授乳は大変。時々お父さんがミルクを作って代わってあげましょう』などという父親像がファンタジーの存在に思えた。
母親は出産後にホルモンが変化するから細切れ睡眠でも大丈夫なように体が変化する、だから母親は辛くない筈だ、という説もある。
しかし、私に言わせれば、『寝かさない』という古来からある拷問、それを受けても死なない程度には耐性は出来るのかも知れないが、やはり、母親だって眠たいものは眠たいのだ。
眠くて、眠くて、気が狂いそうな程に眠くて、このままずっと寝ていられたらどんなに良いかと思うけれど、でもやはり赤子が泣いているから、渾身の体力と根性と気力を振り絞って、振り絞って、振り絞って、なんとか起き上がるのである。
一晩に何回も。
その辛さに母親と父親の違いなど無いのである。

それでも私は、夫に対して家事育児に関する不満を感じていない。
何故なら私は、育児に従事する為に仕事を辞めたからだ。
私は仕事は好きだったが通勤と無意味な長時間労働が大嫌いであった為、あのエクストリーム通勤地獄を代わってくれていると考えれば、育児のメイン担当は私で全然構わないと思えるのだ。
そして二人でバリバリ働いたら、絶対私はタスクの偏りに不公平感を覚え、夫に不満を抱えるようになる。
だからあらかじめ分業制にしたとも言える。
何より、夫は第二子出産後、長い育休をとってくれ、敬遠していたほとんどのタスクをやれるようになってくれたので感謝している。

話は戻るが、
「やり方が分からない、出来ない、怖い、やったことない、自信ない」
と言って断る時、その人は目の前の人の存在をどう思っているのだろうか?
『やったことない』がやらない理由になるのであれば、人間は歩くことすら出来ない筈ではないか。
新しい仕事を覚えることも、絶対に出来ないではないか。
目の前の人(赤子の世話をいつもしている人)だって、やったことない、やり方の分からないことを、怖い怖いと思いながら、それでもやらないと赤子がシンでしまうから、勇気を出して、時には汚れるのやだなーなどと思いながら仕方なくやるのである。

だから、そんな言葉で断られるよりは、
「そのタスクは自分の担当ではないのでやらない」
とか、いっそもっと簡単に
「面倒だからやりたくない」
と言われた方がよほど潔く思えるし、納得できる。

「やり方が分からない、出来ない、怖い、やったことない、自信ない」
と言われると、
「私だって同じなんだよ!」
としか思えないのである。

チコちゃんに叱られたくない

私は、真面目な人間である。
逸脱が無い、という意味では無い。
全ての言葉に対して、真に受けすぎるのである。
詐欺や押売りには引っかかった事は無い。
彼らの嘘は、『騙す事で彼らに利益が生まれる』ので、理解出来る。
分からないのは、軽い冗談などの『益無き嘘』である。
例えば、駄菓子屋などでおっちゃんに
「はい、30万円ね」
と言われたことがあろう。
これが苦手である。
流石に、おっちゃんが子供を派手にカモろうとしようとしているのでは無いだろうと理解はできるものの、
『え、突然何言ってるの、この人。
 私、どうしたらいいの???』
と混乱して固まってしまう。
あるおっちゃんはそれを見て
「冗談通じないんだね」
とか何か、呆れたふうな事を言っていた気がする。

また、私が新人の頃、新人だけの飲み会に、会社のちょっと偉い人が突然参加してきたことがあった。
その偉い人は、別の新人に「飲め飲め」と酒を勧め始めた。
彼は
「いや〜、勘弁してくださいよ」
「もうホンット無理っす」
「いや、流石に飲めないっす」
とか言いながら、でもなんだかんだ言って飲んでいた。
何度飲んでもまた勧められる。
何回も、何回もである。
私は、彼が本気で嫌がっていると思い、そんな彼に飲ませる偉い人が余りに意地悪であると思った。
また、まわりの空気も重苦しく、皆がその偉い人を持て余しているように感じた。
彼も皆も自分のお金を払い、時間を費やし、何故こんなひどい虐げを受けなくてはならないのか。
楽しく飲むために集まったのではないのか。
私は彼が余りにも不憫になり、酒の勢いもあってか、静かに泣き出してしまった。
これは社会人にあるまじき情けない失態であり、自分でもとても嫌であったし今でも反省はしているが、抑えらなかったのだ。

すると皆は私をみてギョッとし、
「いやいやいや、冗談でやっているんだから大丈夫だよ」
「皆冗談って分かっているんだよ」
などと言い出した。
飲まされていた彼さえも、である。
なにやら、そういう冗談の型があるらしい。
今でも理解不能である。

私の実家の家族で他に、斯様に言葉を真に受ける傾向があるのは、父と姉である。
母はその点に関してはまあ普通である。
父は私に輪をかけて冗談が通じない。
例えば、姉の昔のピアノの発表会のレコードを皆で聴こう、となる。
誰かが間違えて別の、立派なフルオーケストラのレコードを掛けてしまう。
私がそれに対して
「へぇ、おねえちゃん随分上手だったのね」
と言う。
無論冗談である。
しかし父は笑いもせず
「これは◯◯(姉)の演奏ではないよ」
と言うのである。

また、テレビ番組のCMまたぎの演出で、CM前にレポーターが何かの光景をみて驚きの表情を見せるのだが、肝心の光景は視聴者にはなかなか見せず、CM後も同じシーンを繰り返し、相変わらず光景はなかなか見せず、という型がある。
父はこれに完全にキレていた。
「これでは視聴者がレポーターの感情に全く共感できないじゃないか!」
と言いながら。

そして父も姉も私も、人がウェブサイトの事を『ホームページ』と言うと怒る。
その場では怒らないが食事の時間などに
「ホームページとは一連のページ群のトップに表示されるページのことを言うのだ!
 何故こんなにも誤用が広がっているのだ!」
と互いにぶちまけあう。

とにかく冗談が通じず、言葉を真に受け、曖昧な事が苦手な父と姉と私は、システム屋であることが快適である。
曖昧さを解決していく仕事であるからだ。

因みに父は昔アメリカで働いていたのだが、こんなにもジョークを理解出来ずにどうやってあの国で円滑なコミュニケーションをはかっていたのであろうか。
父は日本に帰ってきた事を
「人生最大の miss take だった」
と語るくらいなので、恐らく上手く適応していたのであろうが、一体どうやって?
人生の参考として聞いてみたいが、冗談が通じないという自覚が恐らく無い彼に対して
「あなたは大変冗談が通じないですがどうやってアメリカで通用していたのですか?」
と聞くのは何だか失礼な気がして聞いていない。
アメリカの技術者も大概ジョークが通用しない人々なのかも知れない。

前置きが長くなったが、NHKの『チコちゃんに叱られる』(以下、『チコちゃん』と呼称)である。
私は近年、テレビは自分ではドキュメンタリーと紀行ものとロシア時代劇とルパン三世シリーズしか観ていない。
ワイプやCMまたぎなどの演出がイライラするからだ。
観る時間が無いという理由もある。
しかし夫と娘が『チコちゃん』を好きなので、リビングに居ると観る羽目になる。

この番組、言葉を真に受けるタイプの人間が観ると、非常に疲れるのである。
まず、チコちゃんという5歳の少女のキャラクターから
「何故、◯◯なの?」
という問いかけがある。
これが耳に入った瞬間、真面目な自分は、持てる知識を総動員して答えねばならないと感じる。
そこで答えるのであるが、『チコちゃん』は普通のクイズ番組と違い、わざと質問と答えのニュアンスに微妙にズレが生じるように構成されているのだ。
「答えは、◯◯だから〜〜」
と発表された言葉は、大抵視聴者からすると意外なもの、それだけでは理解できないようなものであり、『え? なになに、どういうこと?』と興味をひいて詳細へ誘導するような作りになっているのだ。

例えばこうである。
チコちゃんが、

「何故、桃太郎は桃から産まれるの?」

と問う。
私はそれに対し、

「桃には古くから鬼を払うという言い伝えがあり、例えば古事記にはイザナギイザナミを黄泉の国に迎えに行った時に黄泉比良坂でイザナミの遣わした醜女達に投げつけて追い返したという記述がある。
 もっと元を辿れば中国の神仙思想に行き着く。
 西遊記では桃を食べて若さを保つ神仙たちのエピソードがある。
 主人公が鬼を倒すという運命を示唆するために、神聖な桃という属性を付与したのではないか。
 そもそも桃太郎の物語自体、中国の古書である『捜神記』あたりに原型があるのではないか。
 また、人間が物から産まれるという物語は世界各地に存在し、日本の垢太郎竹取物語チェコの切り株太郎など、偉業をもたらした者や恐ろしい事を成した者に人外の属性を与える物語形態の一種と思われる」

などと答える。
私の専門ではないので割と適当なのであるが、それでも問われた事に対して出来得る限り真摯に答えるのである。
しかしチコちゃんの答えはこうなのである。

「それは、大人が忖度したから〜〜」

曰く、昔から伝わる桃太郎の物語では、桃太郎は桃から産まれたのではなく、桃を食べたおばあさんが若返って桃太郎を産んだ、となっていたのであるが、明治時代にそれでは生々しいから桃から産まれたように改変した、とのことである。

え?
問いかけは、そこなの?
『なぜ、桃から産まれたか』
ではなく、
『なぜ、人以外から産まれたか』
なの?
元の問いかけと答えが、一対一になっていなくない?
『なぜ桃か』
の部分に対する答えが欠落してない?
そういう答えにするならば、質問文をせめて
『なぜ桃太郎は人間以外から産まれたのか』
としなくてはならなくない?
私は激しく混乱した。

あるいはこうである。

はやぶさ2は何の為に宇宙に行ったの?」

と問われる。
私は、

小惑星の欠片を取りに行ったんじゃなかったかな?」

と答える。
チコちゃんの答えはこうである。

「生命誕生の謎を解明する為〜〜」

もう、続きは耳に入らなかった。
質問が曖昧過ぎるのだ。
『何の為』と問うた時、答えのレベルはミクロからマクロまで無限に考えられ得る。

何の為に宇宙に行ったか。
小惑星の欠片を取りに行く為。
取りに行ったのは何の為か。
何かの実験の試料として使う為。
何の為の実験か。
生命誕生の謎を解明する為。
何の為に解明するのか。
何らかの病気の治療法を探る為、若しくは純粋に学問の為。
それは何の為か。
人間がよりよく生きる為。
それは何の為か。

以下、エンドレス。
もっと具体的に問うてくれないと、答えが一意にならない。
大学入試で出題されたら、どこかの予備校からツッコミが入るヤツである。
こんな意地悪なクイズ、一体どうやって答えろと言うのだ。
当てようが無いではないか。
混乱を通り越し、怒りが湧いてくる。

挙句、

「ボーッと生きてんじゃねーよ!」

と怒られるのである。

何故、精一杯真摯に回答したのに、曖昧な質問文によりミスリードされ、減点された挙句、5歳児にダメ出しされなくてはならないのか。
私は彼女に叱られるほどボーッと生きているのだろうか。
朝から晩まで子供達の世話でてんてこ舞いで、ボーッとなんてもう何年もしていない気がする。
なんでこんなやつに叱られなくてはならないのか。

満身創痍、疲労困憊である。

皆様ご覧ください。
これが、言葉を全て真に受ける人間の思考回路である。
夫曰く、
「テレビを観るのに絶望的なまでに向いていない」
のである。

 

 

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ピアノその後

以前、CASIO のキーボード LK-511 を購入したと書いた。
自分でも三日坊主になると予想していたのであるが、なんと吃驚、殆ど毎日練習できている。
ただし、まとまった時間など取れるはずもなく、通りすがりに一回、二回と弾き、子供に呼ばれ中断し、という感じである。
本物のピアノと違い、蓋を開けて、フェルトのカバーを外して、楽譜を立てて、という手間がなく、本当に通りすがりにささっと弾けるので、練習に取り掛かるまでの心理的ハードルが低いのだ。

普通の楽譜の『Fly me to the Moon』(難しいけど格好良いアレンジ)をメインで練習し、息抜きとして CASIO のソングバンクプラスでダウンロード購入した光るキーボード対応の『Fly me to the Moon』(前者に比べると簡単)を練習していると書いたが、後者が割と通して弾けるようになってきてしまったので、今はそちらをメインに弾いている。
やはり、キーボードが光るというのはUIとして分かりやすいのだ。

ちなみに、私がピアノを習っていた子供時代に最後に弾いた曲は『人形の夢と目覚め』であった。
その曲が LK-511 に入っていたので、弾いてみた。
まあまあ弾けたのだが、いやもうこれが実につまらなかった。
ピアノの練習曲というのはどうしてこう、優等生っぽいというか何というか、色気がないのだろうか。
『この曲を弾けるようになりたい!』という気が全く湧いてこない。
この手の曲を好きな人はご気分が悪くなるだろうが、全て私の主観という事でお許しください。
子供の頃の自分よ、よくこの曲を我慢して練習したな、と思うのである。
クラシック音楽は元々嫌いではなく、中でもバロック音楽などは好きなくらいである筈なのだが、バイエルをはじめとした、ピアノ練習曲全般の色気のなさは一体何なのだろうか。
簡単な曲だから色気がないのだろうか。
いやいや、『簡単=色気がない』ということはない筈だ。

『色気』の反対は『禁欲』である。
禁欲といえばヴィクトリア朝である。
もしかしてこれらのピアノ練習曲、ヴィクトリア朝の影響下で書かれたものなのでは!?
と思い、調べてみたところ、『人形の夢と目覚め』も『バイエル教則本』も、年代的には一致していたが、どちらも国がイギリスではなくドイツであった。
しかしドイツといえばプロテスタント発祥の国である。
プロテスタントといえば、やはり禁欲のイメージがある。
バイエルに至っては、神学校で音楽を学んだという。

そうか!
ピアノ練習曲の色気の無さは、プロテスタントの真面目さと装飾嫌いと禁欲が根底にあるのか!
(単純な言葉遊びと連想ゲームなので、真に受けないでください。)

中世、西洋音楽は、ロマや吟遊詩人など、流浪の民が受け継ぎ育ててきた。
彼ら自体蔑視された存在(貴族であった吟遊詩人、トゥルバドゥール達を除き)であり、音楽自体俗っぽく決して上品なものとは捉えられなかっただろう。
近世以降、音楽は『高尚な趣味』となり、貴族がサロンで嗜むものとなった。
私は、そのような上品な曲ではなく、大衆が場末の酒場で女を口説きながら聴くような曲が好きなのだろう。
ロマの娘がカスティーリャを叩きながら失恋を踊る、または戦争帰りのアフリカ系アメリカ人が貧しさの中でピアノを弾く、そういうところに音楽としての『色気』を感じるのかも知れない。

因みに最近娘は、LK−511 に初めから入っていた『千本桜』が何故か気に入ったらしく、繰り返し聴きながら鏡の前で踊り狂っている。
息子はそれを見ながら激しいリズムで屈伸運動をしている。

 

 

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中世賎民の宇宙―ヨーロッパ原点への旅 (ちくま学芸文庫)

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文明が進むほど、家事育児は大変になるんじゃないか?

今日は一日、掃除と娘の為の裁縫で終わってしまった。
久しぶりに布団を干して掃除機を掛けたのだ。
この、『布団やマットを干して取り込んで掃除機を掛ける』という家事(以下、『布団掃除機掛け』と呼称)、自分にとっては、もん〜〜〜〜〜〜のすごく大変なのであるが、皆さん、どれくらいの頻度でやっていらっしゃるのだろうか?
私の両親は戦前戦中の雪国寒村生まれであるが、布団掃除機掛けを行う習慣は過去も現在も無い。
そもそも、彼らの育った家には掃除機は無かったと思われる。

私も、上の子供が産まれるまで、布団掃除機掛けはやっていなかった。
知識としては、現代の家事としてそういう事をするものらしい、とは薄々知っていたのだが、『そんな大変な事、まさか、嘘でしょう?』と思っていた。
また、夫婦ともに超長時間労働をしていた為、実質無理でもあった。
しかし、上の子の妊娠出産に伴い私が会社を辞め、また、赤ちゃんもいる事だし、やらなくてはいけないかな、と思い直し、ほぼ毎日やり始めた。

しかしこれが大変だった。
子供の機動力が低いうちはまだ可能だが、ハイハイや歩き始めなど、機動力が上がってくると、子供は親の視界に入ろうと、親が注視している場所(つまり掃除機を掛けている場所や、掛けようとしている場所)に突進してくるのだ。
いつもと違う配置の布団に興奮して飛び込んでくる子供。
大笑いして布団の上を転げ回る子供。

全く捗らない。

かといって子供の昼寝の時間に行えば掃除機の起動音で起きてしまうし、起きてる時間に別の部屋に隔離すれば、寂しがってギャン泣きする。

無理なのだ。

それでも頑張ってほぼ毎日掛けていたが、下の子が誕生するともうお手上げで、今は、夫も居て特に何の予定も無い休日、せいぜい月1回くらいでしか行わなくなってしまった。
たまにやっても、本当に大変過ぎて心が折れそうになる。

本当にこんな事やらなくてはいけないのか? と思って色々検索すると、
『布団はダニの糞や屍骸でいっぱいで、掃除機を掛けないとダニに噛まれたり子供が喘息になる恐れがあります』
とか、
『確実にダニを吸い取る為に、天日で干した後、表と裏に、縦方向、横方向、交互にゆっくり掃除機を掛けましょう』

などど書いてある情報ばかりにぶつかり、あ〜ぁ、やっぱりやらないとダメなのか、とげんなりする。
子供を人質に取られているようなものだ。

夫は、そんなことは別にやらなくて良いという。
布団に限らず、掃除自体に必要性を感じない人なのだ。
尚、夫の布団は特に何枚も重ねてあり、下から、マット、吸湿マット、低反発マット、敷布団、掛け布団、毛布の計6枚体制である為、一枚ずつめくって表裏に掃除機を掛けるのがシぬほど大変である。
私は『地獄のミルフィー』と呼称している。
しかし、子供の布団の隣に夫の布団がある以上、夫の布団のダニが子供の布団に移動して……などと考えてしまい、結局やっている。

ここでちょっと計算してみよう。
以下は一般的な布団のサイズ及び面積である。

掛布団
150×210cm = 3.15 平方メートル
敷布団
100×210cm = 2.1 平方メートル

四人家族で、各人が敷布団一枚、掛布団一枚、掛毛布一枚を使用しているとする。
一人分の布団及び毛布の総面積は、以下の式で表せる。

( 3.15 × 1 ) + ( 2.1 × 2 ) = 7.35 平方メートル

これが4人分で
7.35 × 4 = 29.4 平方メートル

そして、表裏があるので
29.4 × 2 = 58.8 平方メートル

そして、縦方向と横方向、交互に掃除機を掛けるとすると
58.8 × 2 = 117.6 平方メートル

117.6 平方メートル !!???

ちょっと田舎の広い家 一軒分やんけ!?
参考)https://allabout.co.jp/gm/gc/394169/

布団やマットだけでこれだけの面積に掃除機を掛けなくてはならないのだ。
床の他に、である。
しかも、床と違って、一枚一枚運んだり、裏返したり、畳んだり延ばしたりをしながらの作業である。

ちょっと!
最初に布団掃除機掛けをしなきゃだめとか言い出した人、これ分かって言ったんですか!?

そして、羽根布団などは、折角干してフッカフカになったのに、掃除機を掛けるとみるみるうちにペッタンコのションボリ布団になってしまうのだが、これ、本当に合っているのか?
ウチの羽根布団が安いから? えぇそうかも知れませんけど。

なんか、70年代以降、子供の死亡率が下がるとともに喘息やらアレルギーやらが問題となって、それなら布団にも掃除機を掛けて、より清潔な生活をしなくちゃね、みたいな流れになり、今は喘息やアレルギーじゃなくても予防のために皆布団掃除機掛けをした方がいいよ、みたいなノリになったんじゃないですかねー。

掃除機の登場と、より健康的で清潔な生活への希求が、家一軒分の新たな掃除対象を生んだのである。

各種家電の登場により家事は楽になった面もあるのかも知れないが、文明の発達に伴い、より清潔で、より安全で、より健康的な生活を求める欲が生まれ、それに伴う出費や手間(家事)は確実に増えているよな、と思う。

昔、という言い方は曖昧過ぎて嫌いだが、自分の5〜10代前の祖先(恐らく寒村の住民)がどんな暮らしをしていたかを想像してみよう。

板間や、藁を重ねた上に寝て、食器は食事の最後にちょっとすすぐだけで終わり。
子供はかなり小さい頃から外で子供同士だけで遊ばせる。
少し成長したら労働力の一員。
おもちゃも絵本も無いので散らからない。
服はシーズンで1着ほどしか持たないので散らかりようが無い。
などなど。

いやいや、分かっていますよ。
その代わり、最低限の生命維持の為の活動(主に食糧生産)に共同体の全リソースを投入せねばならないし、乳幼児は事故や病気で死亡率がハンパ無いし、大人も子供も飢えと戦わなくてはならないし、洗濯機もガスコンロも無いから、おしめを洗うだけでも、調理をするだけでも、もう超絶大変であったであろうことは。
当時に比べれば、現代は極めて低コストで生命維持の可能な夢の時代であることは。

でも、『安全で清潔で便利な生活』が当たり前になると、生命だけでなく、それらを維持しなくては、人間は気が済まなくなる。
皿洗いも、布団掃除機掛けも、おもちゃの片付けも、朝から晩まで子供につきっきりでおままごとなど遊びの相手をすることも、『安全で清潔で便利な生活』が当たり前となった為に発生した新しいタスクである。

私が子供の頃、幼稚園や学校に行く子供たちは、水道の水を直接飲んでいた。
今は、水筒を持たせるのが普通である。
毎朝お茶を淹れ、水筒にいくつものパッキンやら紐やらを付けて組み立て、子供に持たせる。
帰ってきたらまた紐を外し、細々したパッキンを外し、洗って乾かす。
毎日毎日、である。
水道の水なんて不潔?
感染症になる?
そうまでして清潔でなくてはならないのだ。

また今、子供を産む事に対するハードルはとても高い。
人々の子供に対する期待が、『生きて働いて次代を産んで老後を看させる』どころではなく、『品行方正で、当人がより豊かな人生を送る』になり、その為に教育コストをいくら掛けても足りない気持ちになっている。

いくらテクノロジーが発達し、個々の家事が楽になったとしても、人の求める『安全で清潔で便利な生活』もエスカレートしていくので、その為の新たな家事が生まれたり、新たなコストが掛かったりするのだなぁ、と、家族4人分の布団掃除機掛けで疲れ果てた体を休めながら考えたのである。

 

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CTの検査を受た話

先週のこと。
娘が自宅トイレで派手に転び、子供用踏み台に顔を強打した。
顔に濃いめの痣が出来て心配だった為、近所の形成外科に予約をとり、相談をしたところ、痣は心配無いが顔の内部に骨折が無いか確認する為CTを撮りましょうとのこと。
すぐさま検査となったのだが、CT室での娘の抵抗が凄かった。
特に痛いことをするわけでも無いのに、嫌だ嫌だ、怖い怖いとギャンギャン泣き叫び、3、4人いらっしゃる検査技師の方と私、皆で説得するも頑として検査ベッド(?)に寝転ばない。
壁に描かれた魚やら動物やらを指差し、

「ほらほら、可愛いお魚さんだよ!

 全然怖くないよ!」

などとやるも、全く耳に入らない状態だ。
廊下ではきっと、他の方もお待ちだろうに、娘にこんなに時間を掛けて頂いてはいけない。

検査技師の方々にも手間をお掛けして申し訳ない。
もう検査を受けず帰ろうか??
しかし骨折していたら??
焦りが募る。

……仕方ない。
私は意を決した。

「じゃあ、私が寝〜ちゃお〜〜!」

私は自ら検査ベッドに寝転んだ。

「わぁ〜〜〜!
 なにこのプリンセスベッド、めっちゃフカフカ〜〜〜!(←恍惚の笑みでグレーの硬いクッション面を撫で回しながら)
 私、ずっとこのプリンセスベッドに寝てみたかったんだぁ!
 あら、もしかして頭上のあれは噂のプリンセストンネル
 あれをくぐるとプリンセスになれるんじゃない?(自分でも何を言っているのか分からなくなってくる)」

ここで、若い女性技師さんの援護射撃が入る。

「ほらほら、○ちゃん、ピンクのプリンセスまくらもあるのよ!」

「聞いた!? プリンセスまくらだって!
 わぁ〜、めっちゃ素敵!
 え? 娘ちゃん寝ないの?
 プリンセスベッドなのに?
 じゃあこのプリンセスベッドは私だけのねぇ〜〜〜」

もう、他の検査技師の方の視線などはどうでも良い。
廊下で待っている皆様に声が漏れていても構わない。
私の一時の恥などかきすてである。

お母さん、どいてぇ!

 わたしが寝るうぅ〜〜〜!」

ギャン泣きの娘がギャン泣きのままそう叫んで突進してきたところで、私はベッドから降り、検査技師の方にお詫びして検査室を出た。

検査結果は異常なしであった。

娘の食べ方、息子の食べ方

超少食な4歳娘と、食欲旺盛な1歳の息子。

 

娘は、生まれてすぐ、新生児室にいた時から、あまりミルクを飲まなかった。

「ミルクの飲みが悪い」という理由で、母子同室になるのが1日ほど遅れた。

息子は、生まれた翌日からゴッキュゴッキュ飲みまくり、ミルク飲み人形を思わせる一気飲みスタイルであった。

 

娘は、よだれというものを全く垂らさず、私はよだれかけというものを、ファッションアイテムか、ミルク吐き戻し対策か、食べこぼし対策のいずれかの為の存在であると思い込んでいた。

したがって、外出先でよだれかけをした赤ちゃんを見ると、私は

 

「外でよだれかけするなんて、オシャレね」

 

などと感心していた。

 

息子はよだれが滝のようで、よだれかぶれに今も悩まされている。

 

普通の食事を摂るようになると、娘はひとくち口に入れると、ずーーーーーーっと咀嚼し続けた。

見ているこちらが退屈になるので、咀嚼している間に別のタスクを始めたくなるほどであった。

娘自身も咀嚼の間が退屈らしく、ひとくち口に入れては席を立ち、咀嚼しながらフラフラ遊びまわり、いつまで経っても食べ終わらない。

食事の間は着席させておく、ということを教えるのに物凄く苦労した。

一方息子は、口に入れたそばから次から次へと飲み込み、後から後からひょいひょいと口に入れてやらないと「もっともっと」と要求がすごい。

「私、わんこそばの人なのかな」と思うほどだ。

 

多分、遺伝子レベルで消化液の分泌能力が違うのだと思う。

それぞれ自分のペースで食べていって欲しい。

 

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人はこうして「食べる」を学ぶ

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